今日は、母親宛てにきた年賀状の返信を作成・印刷しましたが、亡くなったのが12/16なので、ちょうど1か月になります。いまだに亡くなったという実感がわかない部分が残っているのですが、当分はこんな感じが続くのだろうと思います。
今回の件に関して、複数の人から「もっとクールな人なのかと思っていた」と言われました。ボク自身もそう感じています。そこで、改めて考えてみると、ダメージが大きくなってしまった要因としては、以下の3つがあるような気がします。
(1) 介護をしていたこともあり、特にここ10年くらいは親子関係が逆転していた。
(2) 親の死について、しっかり考えることを先延ばしにしていた。
(3) 転倒する直前まで幸せな日々を送っていたので、その反動が大きい。
(1)に関して。
ボクが母親の健康状態を意識的にケアするようになったのは、約20年前です。当時は、近藤誠の“がんもどき理論”が話題になったころで、それに関する賛否の情報を集中的に読んだことがあるのですが、その際に、同時に高血圧や心臓病などの本も何冊か読みました。定年退職後の母親を見ていて、今後の健康状態が心配だと感じたからだと思います。
それを機に、病院の検査結果や処方された薬をチェックするようになり、「別の薬の方がいいんじゃないか」なんてことも考えるようになりました。ボクが特に心配していたのは心臓で、このままだと心臓病で死ぬ可能性が高い、と考えていました。
ボクの予想に反して、その約5年後(2002年)に母親はクモ膜下出血で倒れ、本格的な介護生活が始まります。ちなみに、入院先の女子医大病院で処方された薬が、ボクが「いいんじゃないか」と思っていた「別の薬(AT2ブロッカー)」で、その後はずっと飲み続けることになりました。
クモ膜下出血の後の7〜8年は、1人で通院ができていたので、介護レベルとしては重くはありませんでした。ただ、「日常的に絶えず母親の様子を注意・観察する」という習慣が、ボクの身に付きました。
この「身に付いてしまった習慣・感覚」が、今のボクをつらくさせているのだと思います。
2008〜9年くらいから、体力の低下や認知症(物忘れ)が目に付くようになり、通院に同行するなど、介護量が多くなっていきました。それに伴って、母親に関与する時間も多くなり、会話量も増えました。
(2)に関して。
ボク自身は、「もうちょっと先」とか、「オリンピックまでは大丈夫だろう」などと考えていたのですが、今思えば、どこかで考えることから逃げていたのだと思います。
2016年8月にリハビリ病院に入院した時に、医師に「何年か先には自宅で生活できなくなることもある」と言われたのですが、「そんなこと考えたくないな」と思ったことを覚えています。おそらく、ここがボクの甘さ・弱さだったんだと思います。
今から思えば、母親は遺言と思えるような話を何度もしていたのですが、ボク自身はそれに対して真剣に対応していませんでした。こんなことになるなら、もう少ししっかり話をしておけばよかったです。
(3)に関して。
昨夜も友人に言われたのですが、「不幸と悲しいことは違う」と。
なんだかんだ言っても、ボクにとって介護の日々は幸せだったのだろうし、介護されている母親もそう感じていたのだと思います。
ときどき、近所・病院・デイサービスの人から「こんなに面倒を見てくれる息子さんがいていいですね」と言われることがありましたが、おそらくボクがいないところでも、母親はそのように言われていたはずです。そう言われて、母親は幸せを感じていたんじゃないかと想像しますし、そうであってほしいと思います。
だとしたら、「現在のつらい日々」というのは「それまでの幸せだった日々」の裏返しなんじゃないか? 例えは悪いですが、麻薬の禁断症状がつらいのと同じなんじゃないかと…。(^^;;
ここ数日はそんな風に思っています。
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