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2017年12月28日08:24

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12/16 人生でいちばん長い日


母親が入院してから、ほぼ毎日、備忘録として記録をつけていたのですが、最後の1日については記録しないまま、2週間近くが過ぎてしまいました。そのうち書かなければと思いつつも、自分としては気の重い内容なので、それで後回しになっていたという事情もあります。

備忘録は、その後のリハビリなどに活かすために書いていたものですが、皮肉なことに、母親との最期の日々を記録するものになってしまいました。ただ、目的が変わってしまったとはいえ、最後の1日も記録しておかないと、記録として完成しないので、ここにまとめることにします。

当たり前ではありますが、どうしても長くなっちゃいます。実際、長かったし。

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■12月15日(金)
 この日は予定よりも遅れて午後5時頃に面会。ちょうど父親も来ていたので、面会票は父の名前に「他1名」とした。
 様子は前日と比べて大きな変化はない。左側の鼻に流動食用のチューブが入っているのは、いつも通りだが、この日は、右側にも白くて短い管が入っていた。耳鼻科で鼻の中を見る時に使うような管だが、吸引の際に鼻の中を傷つけないために入れたのかもしれない、と思った。
 様子を見ていると、痰で呼吸が苦しそうだったので、ナースステーションに行って吸引をお願いする。やってきた看護師が吸引作業をしているとき、美人で親切な濱谷さんがやって来て「私の担当なのにすみません。代わりましょうか」「いえ、大丈夫です」という会話。
 その後、いつもの足裏マッサージをしたが、やはり痰が苦しそうだったので、身体を横向きにした。足裏を押した時のリアクションもあまりよくなかったように記憶している。バイタルチェックの看護師が巡回してきたので、体温を聞いたら「37.8度」とやや高め。ちょっと気になる。
 父親が先に帰った後に、夕食用の流動食を持った看護師が来て、改めて吸引をしていた。終了後に見たら、ベッドの傾きを上げたようで、より身体を起こしたような姿勢になっていた。その後、弟が面会に来たが、予定があるとのことで、数分ですぐに帰った。

  *  *  *

 その後もしばらく、ボクは様子を見ていたが、一瞬呼吸が止まって、その後に咳き込む瞬間があった。看護師を呼ぼうかとも思ったが、他の患者の処置をしている看護師に声をかけるのが、はばかられたので、その後もしばらく様子を見る。ただ、ベッドの傾きを上にあげたせいか、徐々に呼吸が楽になったように感じられたので、19時ごろに帰宅することにする。
 痰が苦しそうな状態は、以前にもあったので、「今日はちょっと痰が多い」と感じたものの、それほど重大だとは思っていなかった。今思えば、気になったのであれば、他の患者の処置中でも看護師に訴えておくべきだった。訴えたとしても、結果は同じだったのかもしれないが、いまだに「母親を見殺しにした」ような思いが残る。
 帰る際にも、いつものように「また明日来るから」と声をかけた。どんなリアクションだったのかは覚えていないので、リアクションはなかったはず。手を握ってと言ってもリアクションはなかった。結果的には、これが最後の面会となる。
 帰り道では、その日のワイドショーで見た太川陽介と藤吉久美子の会見はプロフェッショナルな完成度だったな〜、などと考えていたのを、今も覚えている。つまり、この6時間後に急変するなんて、みじんも考えていなかった。

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■12月16日(土)
 深夜、「新宿セブン」を見ながら、来年1月で使用不可になるスマホの買い替えを検討していた。15日に、乗換キャンペーンのメールが来ていたからだ。「新宿セブン」が終了し「セトウツミ」になった頃の、1:05に携帯電話が鳴る。病院からだったので、ドキッとしながら出ると、「看護師が巡回したら、呼吸が止まっていた。これから蘇生処置をするがいいか」と。
 こちらとしては晴天の霹靂なので、「何を言ってるのかわかりません」と再度の説明を求める。2度聞いても言ってる内容は同じだったので、「とにかくできることは全部やってください」と言って電話を切り、病院へ向かう。車の中で「痰が苦しそうだったが、それで呼吸が止まったのか。入院していて、そんなことがあるのか」なんてことを考えていた。

  *  *  *

 病院につくと、「処置中なので中に入れません」と看護師に言われる。病室はナースステーションの隣の602号室に移ったみたいだが、廊下から、心臓マッサージらしきことをしているのが見える。ソファーに座って呆然としていると、見慣れない医師がやってきた。
 「脳外科の医師はオペ中なので、当直の私が診ている。原因はよく調べないとわからないが、看護師が呼吸が止まっているのに気が付いたので蘇生処置をしている。すでに20分やっているが、まだ蘇生できないので、今後蘇生したとしても脳死になる可能性が高い」
 そんな話を聞かされている最中に看護師が駆け寄ってきて、耳慣れない専門用語で報告。医師は「心臓が動き出したようです」と言って病室に戻った。
 30分くらいしてから面会を許される。口から気管挿管されていて、モニターがピッピッピッと鳴っている。処置をしている看護師からも話を聞いた。「1時ごろに点滴の回収に行ったら、呼吸がほぼ止まっていて、まもなく止まった。何が起こったのかはわからないが、血中の二酸化炭素の濃度が異常に上がっている。今は昇圧剤で血圧を無理やり上げている」と。また、モニターの見方なども教えてもらったが、上の血圧が80前後を行ったり来たり。
 3時ごろ、ドクターからの説明があるとのことで、ナースステーションへ。入院時の担当で手術も担当してくれた野村周平似の医師だった。なんかこの人とも妙な縁がある。「私が手術を担当した患者さんですが、私は週1回しか来ていないので、細かな経過はわかりませんが、その後も意識の回復が良くなかったみたいで……」と、説明が始まる。

 (1) 何が起こったのか確定できないが、肺炎が悪化して痰が増えた。
 (2) 血中の二酸化炭素濃度が85(通常は40くらい)なので、呼吸が上手くいってなかった。
 (3) その結果として、気管が詰まって、呼吸できなくなったと思われる。
 (4) 看護師は何度も吸引していたが、気管の奥の方の痰までは取れない。
 (5) 今は強い昇圧剤を使っているが、なかなか血圧が上がらない。厳しい。
 (6) 蘇生するのに25分もかかっているので、脳のダメージも大きいと思われる。
 (7) また心臓が止まる可能性があるが、再度の蘇生処置はやっても意味がない。
 (8) 会わせたい人がいるなら、呼んだ方がいい。
 (9) もし心臓の動きが良くなるようであれば、昇圧剤を徐々に減らしていく。
 (10) (ボクからここ数日の様子を説明したところ)11日(月)のカルテでは、白血球が2万以上(通常は4000)になっている。(翌日には5000台に下がっているのを画面上で確認)

 医師が目をつむりながら「厳しいです」と言っているのを見て、助かる可能性がごくわずかだということはわかった。自分の手や膝がガクガクしている。それでも、一途の望みにかけたいと思う。というか、あまりにも突然なので、死を受け入れる覚悟なんてできない。

  *  *  *

 そこから先は、ベッドの脇で、地獄のような時間が続く。血圧は80前後だったが、看護師が姿勢を変えたら60前後に低下した。下がったのは姿勢の問題だから、心配しなくてもいいだろうかと思いつつ、近くを通った看護師に聞いてみたら、関係ないとのこと。
 その後、朝までのことはよく覚えていないが、最初は2ミリだったノルアドレナリンの投与量がどんどん増えていった。血圧の様子を見て、80を切るようになったら、投与量を増やすという手順になっているらしい。看護師の話では、この薬の最大投与量は15ミリだが、ドクターからは20ミリまで上げていいと指示が出てるとのこと。血圧が下がっていくと投与量を上げる、という作業が朝まで続いて、最後は20ミリになった。
 昇圧剤は2種類あって、もう1種類はドーパミン。こちらに関しては、投与量を増やしたりはしないようだ。どちらも、20代の頃、栗本愼一郎の本で知った言葉だが、こんな極限状況で、その2つに出くわすとは……と思った。
 朝になって、親戚などに電話するため、父親がいったん帰宅した。後で聞いた話だと、ゴミ出しとか、猫のエサやりもやってくれたみたいだ。いつ戻ってくるのかを確認するために電話したら、「葬儀屋にも連絡を入れておこうか」と言うので、「まだそれはやめろ」と言った。その時は思い出さなかったが、母親は父親のそういうデリカシーのないところが大嫌いだった。本人は、先々の心配をしているだけで悪気はないのだろうが。
 朝9時くらいに、初めて見る若い医師が診察に来る。頬を叩いたり、瞳孔を見るなどして、意識状態の確認をして、「ほとんど意識がない。持ち直す可能性がないわけではないが、かなり厳しい状態」とのこと。その後、ナースステーションの前を通ったら、その若い医師と主治医が話をしているのが見えた。「主治医は患者の前に出てこないのか」と思ったが、今はそんなことはどうでもいいと思った。
 その1時間後くらいに若い医師が再びやって来て、処置をしたいと同意を求められる。「基本的には延命措置だと思っていただきたい」と言われた。その内容は、現在腕から入れている昇圧剤は、長期間使うと血管に悪影響があるので、頸の血管からの点滴に変えたいというもの。
 ボクは「長期間というのは、どのくらいの時間軸を想定しているのか」と質問したが、回答はよく覚えていない。ただ、それを聞いて、数日程度続く可能性はあると思ったのは覚えている。また「家族の方が気持ちを整理するための時間」というようなことも言っていた。一応、リスクの説明もあったでの、それもちゃんと確認した上で承諾する。ただ、この状況自体がリスクなので、改めてリスクと言われてもピンとこないと思った。この処置のために、小1時間ほど、外で待つように言われる。
 時間の記憶があいまいだが、10時ごろに父親が戻り、11時ごろから親戚が駆けつけてきた。親戚には、転倒・入院したことを含めて、一切の報告をしていなかったので、ソファーがあるところで一から経緯を説明する。「意識が戻ってきたら連絡する予定だった」と。
 お昼ごろ、主治医がべッド脇にやってくる。いつもだったら、用件が済んだらすぐに立ち去るのだが、さすがにこの日は、母親やモニターをじっと見つめていた。

 (1) 午前のレントゲンでは、昨夜よりも肺がきれいになっている。
 (2) 今は、ほぼ自発呼吸なので、頑張っている(呼吸モニターの見方を教えてもらう)。

 他にもいろいろ話したが覚えていない。つまり、目新しい情報は上記の2つだけだったということ。ただ、ボクが「水曜には熱が平熱に下がっていたのに」と言ったら、やたら大きな声で「そ〜だよね〜」と答えていたのが一番印象に残っている。主治医が内心で何を考えていたのかはわかりかねるが、この部分だけは、ボクと同じような感情を抱いていたのだろう。
 この他にも、「何日か前には、リハビリ病院で頑張ろうという話をしたばっかりだったのにね」とか、「もし心臓が持ち直して、意識も戻ってくれば、リハビリで頑張る可能性もあるのだけど…」などとも、言っていた。その真意は不明。もちろん、回復の可能性が高くないことはわかった上での会話である。ボクが「持ち直したとしても、その後は後で、悩ましいことになるんですよね」と聞いたら、うなずいていた。脳死の可能性もあるからだ。いずれにしても、この時の血圧は90前後だったので、まだ希望はあった。

  *  *  *

 その後、ボクも食事をとらなけれればいけないので、いったん自宅に戻る。近くの店で食事をしてもいいのだが、とてもじゃないが牛丼などを食べられる体調ではないので、自宅で朝食用のシリアルに牛乳をかけて食べた。身体がガクガクするのは、交感神経が興奮しているからなので、それを緩和できるんじゃないかと思って、日本酒も1合くらい飲んだ。効果があったのかどうかはよくわからない。その後、mixiの日記に状況を短く書いて、14時過ぎに病院に戻る。
 病院には別の親戚が来ていた。最初にモニターを見たら血圧は81だった。親戚は、しばらく話をして帰っていき、その後の長期戦に備え、父親も帰宅。ボク1人になる。
 未明時は、2分に1回のペースで血圧が表示されたが、昼頃には5分に1度になっていて、この時は10分に1回になっていた。血圧は上下変動を繰り返しながらも、どんどん低下していった。少しでも上がればホッとし、下がればガッカリする。これの繰り返し。これをベッドの横で見続けるのはキツすぎるので、何度も席をはずして、血圧値が更新される頃に病室に見に行くようにする。ただ、低下傾向なのは間違いないので、60を切るようになってからは、もうダメかなという気持ちが強くなってくる。この時間帯の自分の感情は自分でもよくわからない。
 17時半ごろだと思うが、ボクが病室に戻ると、主治医がモニターを見つめていた。後ろから「厳しいですね」と言うと「そうだね」という返事。無言の時間が長く続いた。「このまま血圧が下がっていくとどうなるのか」と聞いたら「心停止」との答えでまた無言。
 主治医の方も、このまま無下に帰るわけにいかないと思ったのか、看護師に声をかけて何かを話している。看護師からノルアドレナリンの投与量が20ミリだと聞き、それを確認して、「これが最大量だ」と言われた。ボクが「今夜にも危ないと考えていいのか」と確認したところ、「その可能性は十分にありうる」との返事だった。
 ベッドの横で5分くらい考えたと思う。決心して、家族と親戚に「今夜にも危ない」と電話する。mixiにも書き込む。すでに母親の手が冷たくなりかけている。血圧が50台なのだから。
 その後も血圧は低下していき40台を記録するようになる。モニターの心拍の波形も、お昼の頃と比べてかなり小さくなっている。酸素量のモニターがゼロになってしまったので、看護師に訴えたら、センサーを指先から耳に付け替えてくれて、99〜100に戻る。
 これまで病院内で写真を撮ったのは、窓から見える富士山だけだったが、まだ生きている母親を写真に撮りたいと思って、アングルを変えて何枚も撮影した。毎日マッサージをした足も撮影した。ところどころにタコができている足である。こんなことをしても、意味がないと思いながらも、撮らないよりは撮った方がマシだろうと思った。
 しばらくすると、呼吸モニターの波形が黄色から赤に変わった。自発呼吸から人工呼吸に切り替わったという意味だ。ボクは色が変わるその瞬間を目で見た。自宅に再度電話して、早く来るように言う。その10分後くらいに、心拍の波形が大きく乱れるようになる。看護師に訴えたが、何もしてくれない。「もうほとんど動いていません」と。「あと何分かで止まるということか」と聞いたら「そうだ」との返事で、他の患者の処置をしている。なんか冷たい。
 一度心拍が0になったが、再び乱れた波形になり、1〜2分後にまた0になった。時計を見たら、18:33。涙も声も出なくて、「こんなものか」と思って、看護師にそのことを伝え、モニターと母親を交互に見ていた。感情のスイッチが切れているのかなと思った。
 普通だったら、まだ体温が残っている身体を触って、名残を惜しむのだろうが、そんな気持ちにもなれなかった。「これは死体であって、もうボクが知っている母親じゃない」というのが率直な気持ちだった。亡骸を見ても、母親とは思えなかった。この感情は、この後も2〜3日続くことになる。

  *  *  *

 面白い(?)ことに、心停止したとたんに看護師が親切になった。看護師にしてみれば、心停止してからが仕事だったのだろう。「これからドクターを呼んで死亡確認をするが、駆け付けてくる人がいるなら、しばらく待つから、時間を教えてほしい」と。そこからは、あちこちに電話して、忘年会の出欠確認みたいな作業をする。家族や親戚の到着時間を確認して、あと何分くらいで家族が揃うかを、看護師に伝える。家族はほどなく到着したが、親戚がなかなか着かない。「もういいや」と思って看護師にGOサインを出したが、その直後に従姉が到着。
 初めて見る女性の医師がやって来て死亡確認をしたが、1分くらいで終了。この間も人工呼吸器は動いていたが、これを取り外した。正式な死亡時刻は18:59。ちょうどこの時に、mixiを読んだマイミク氏から電話がかかってきたので、病室の外に出る。早々と電話を切って病室に戻ると、看護師に「処置をするので待っててほしい」と言われる。
 家族や親戚とは何を話したのか覚えていないが、こういう時の会話なんてたかが知れてる。遺体の安置や葬儀をどうするのかという話もした。遅れて、他の親戚も駆けつけてきた。その人がわんわん泣いているのを見て、こちらがもらい泣きをしてしまった。よく考えてみたら変な話ではある。
 ここから先は、ますます時間の記憶がはっきりしないが、遺体が霊安室に移されたのはおそらく8時ごろ。父親が葬儀屋に電話して、自転車で相談に行くことになる。その間、霊安室で親戚と話しながらすごす。「死んでも耳は聞こえている」と言われたが、よくわからない。
 父親が戻って来たが、話を聞いたら、遺体は火葬場で保管してもらうなどと言うので、「話が違う」とケンカになる。ボクは「部屋を片付けるのが大変だ」とは言ったが、ダメだとは言っていないのに、ダメだと思い込んでいたらしい。父親は自転車を自宅に戻してから再度病院に来ると言って、一度帰宅する。
 30分くらいして葬儀屋がやってくる。さっそく「自宅に連れていけないか」という話をしたら、「ご家族で決めてください」と。その後、父親が戻って来て、ひと悶着。ボクも葬儀の勝手がわからないから、「一晩だけでも棺を自宅に戻せないか」など、いろいろな要望を出し、「ドアから棺の出し入れが可能なのか」という話になる。そうしたら、「棺に入れないで、通夜まで自宅で安置したらどうか」と言われ「そんなことができるのか」と聞いたら、「暖房のない寒い部屋ならドライアイスで数日間は安置可能」との返事。こっちはそれを早く知りたかったのに…。
 父親は「今から部屋を片付けたら、何十分も待たせることになる」と反対したが、「待ってもらえばいいじゃないか。そのくらいのわがままは許される」と反論して、葬儀屋に確認したら「待ってくれる」とのこと。まあ、この状況で待てないとは言いづらかったと思うが、ここは自分の意思を通した。
 (今から考えても、これは正解だったと思う。近所の人が何人も焼香に来てくれたし、近所の洋品店の名前も知らないオバさんにも、声をかけて来てもらうことができた。中には足が悪い高齢者もいたので、葬儀場だったら行けなかったはず。とはいえ、亡くなってからの選択が正解でも、どこか空しい。)
 霊安車が出発する時は、看護師もあいさつに出てきて、「毎日面会に来てくださっているのを見ていました」と言われた。ボクも「看護師さんの顔を覚えました」と答えた。
 親戚も一緒に自宅に来てくれて、部屋の片づけを手伝ってくれた。何分待たせたかはわからないが、そんなに長い時間ではなかったはず。ボクは、母親の寝室がある2階に連れて行ってあげたかったが、さすがにそれは葬儀屋から無理だと言われた。「遺体をあちこちに連れ回すのはよくない。仏様は心の目で家の中を全部見ていると考えてください」と。まあ、これは仕方がない。
 遺体の安置が終わったところで、親戚は帰ることになり、その後は葬儀屋との打ち合わせ。祭壇、棺、香典返し、遺影、通夜と告別式の料理など、いろんなことを順番に決めていく。母親は「葬儀は簡単でいい、人も呼ばなくていい」と言っていたので迷ったが、あまり簡単すぎない方向で行くことにする。
 祭壇は3段でもよかったのだが、白い布張りの棺は5段コースからと言われたので、布張りの棺を用意してもらえる中で一番安いコースにした。燃やしてしまうものだが、木の棺だと安っぽい印象がしたので、そこは見た目を重視した。香典返しは、母親が好きだった羊羹がいいと言ったのだが、カタログになかったので、それに近そうな信州小布施の栗かの子にした。従姉に「ちゃんと化粧をしてもらうように」と言われていたので、化粧もお願いする。見積もりの概算は、お寺に払うお金を込みで200万弱。
 葬儀屋が帰ってから時計を見たら、11時を過ぎていた。自分としては9時くらいの感覚だったのでびっくりするが、よく考えてみたら、亡くなったのが7時なんだから、4時間くらいたっていてもおかしくはない。
 この後は何をやったのか覚えていないが、散らかったものの整理や、誰に連絡するかなどの名簿調べをして、2時くらいに、むりやり何か(朝食シリアル?)を食べた。mixiにもつぶやいたように、病室でずっと聞いていたモニターの警告音が頭の中でずっと反復していた。血圧が80を切ると警告音が出る設定だった。「この24時間は何だったんだ。本当にこれが現実なのか」と思った。
 その後も、ずっと眠れなくて、寝付いたのは外が明るくなってから。怒り、疑問、罪悪感、喪失感など、いろいろな感情がぐるぐる回っている感じだった。心臓もバクバクしていた。ただ、自宅にいる時間というのは、記憶に残らない。

以上。

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