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2017年12月21日07:25

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母親とって、人生とは何だったのか

母親は生前、「私が死んだら私の本を書いてほしい」と言っていたことがあります。それが自伝の代筆なのか、介護日記みたいなものなのかはよくわかりません。ただ、祖父が死んだ時に「父の本を書いてみたい」と言っていたし、飼い猫が死んだ時も「本を書いてほしい」と言っていたから、人間や猫が存在したことを記録に残したいという願望があったのだと思います。もちろん、気まぐれ的に言うだけなので、祖父の本も猫の本も実現しませんでした。

ただ、記憶が薄れないうちに、自分が知っていることを書いておきたいという気持ちが、ここ数日、ボクの中に芽生えています。この際、誰が読むかは問題じゃありません。強いて言えば、ボク自身のために書くのです。見方によっては、それがボクなりの供養であり、リハビリでもあるような気もします。

やや大風呂敷を広げた物言いを許してもらえるなら、モンテーニュの「エセー」やパスカルの「パンセ」だって、他人に読ませるために書かれた文章じゃないわけだし、私的な動機で書かれた文章にも価値はあるはずです。

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そこで、ボクとしてはまず、ここ数年の母親がよく口にしていた言葉を手掛かりに、母親の人生について、考えてみたいと思います。

母親の場合、認知症の症状も出ていたので、感情の振幅が大きく、その時その時で言うことが全く違ったのですが、機嫌が良い時によく言っていた言葉を(わかりやすくアレンジして)箇条書きにしてみたいと思います。晩年の母親が、自分の人生をどう総括していたのかが見えてくるように思います。

●自分の人生は虚しい。若い頃はいろんなことをしたが、結局何も残らなかった。今では、自分を訪ねてくる人もいないし、かつての友人も連絡してこなくなった。

●今の自分は、ただ生きているだけであり、何の楽しみもない。もう、いつ死んでもいい。

●結婚も失敗だったかもしれないが、生まれてきた子供(ボクのことだよベイビー!)に出会えたことが一番の幸せ。

●こうして面倒を見てもらえて、私は幸せだね〜。もう、いつ死んでもいいよ。

●(もう死んでもいいという母親に、「じゃあすぐ死ぬか」と聞くと)やはり死ぬのは怖いから、もうしばらくは生きてる。

●こうして毎日面倒を見てもらって自分は幸せだが、このまま、お前たちに迷惑をかけているだけなら、死んでしまうか、施設に入った方がいいんじゃないか。施設に入ったとしても幸せではないが、それでもいい。

●(ご近所の同世代の女性に会うと)お互いに頑張って長生きしましょうね。

●自分はこうして面倒を見てもらえて幸せだが、自分が死んだ後のお前たちが心配だ。

●歳を取るということがどういうことなのか、今のうちに私のことをよく見ておけ。

●(寝かしつける時に)朝起きたら死んでた、というのが一番いい。もしそうなったとしても悲しまないでね。(「明日の朝でもいいのか」と聞くと「それは嫌だ」と)

上記は機嫌が良い時限定の発言であり、機嫌が悪い時はまた別です。ただ、こうして並べてみると晩年の母親の心境がわかってくるような気がします。

結局のところ、介護を含めて、ボクと過ごす時間が、母親にとっての人生の最終価値だったんだと思います。天気が良い日には、外に連れ出して、近所のお店で2人でランチを食べたりしましたが、そういう時間が幸せだったんだと思います。おかげで、近所では、ボクは母親思いの息子として知られています。(笑)

夜寝る時は、リハビリパンツの確認をするのが日課で、ちゃんと付けないで寝た時は、ボクがたたき起こして、パッドなどを入れましたが、機嫌が良い時は「幸せだね」、機嫌が悪い時は「私のことは放っとけ。それで死ぬなら死んでもいい」などと言っていました。以前は、「私も女だ」と言って、ボクが失禁系の介護をすること嫌がりましたが、近年は慣れてきたみたいで、そういうことは言わなくなっていました。

一番最後の「朝起きたら死んでた」は、かないませんでしたが、母親が急変(窒息)したのが深夜だったことを思うと、半分くらいはかなったと言えなくもないのかなと、この文章を書いていて、ふと思いました。もともとの意識が不明瞭だったので、そんなに苦しまなかったとも考えられます。(この一文、書いていて辛いです)

でも、上記の会話にある通り、もうちょっと生きたいという気持ちもあったはずです。実際、運動系のデイサービスの職員から、10月末に、かなり意欲的に取り組んでいるという話を聞いたばかりでした。

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今回の葬儀で気が付いたのは、上京後から結婚するまでの人間関係がまったく見えてこないことです。

20代の母は、短歌に興味を持っていて、その手の人間関係に関わっていたらしいのですが、結婚・出産あたりを機に、その種の人間関係から外れていったようです。

仕事では羊羹の「米屋」で店員をやっていて、伊勢丹などで仕事をしていたようですが、こちらの人間関係もまったく残っていません。1人だけ仲のいい友人がいて、ボクも知っていましたが、若くして他界しました。

大学を出ていない母親は、そのことに強いコンプレックスを持っていて、60歳で退職するまで、「学歴がないから低くみられる」と、よく愚痴をこぼしていました。おそらく短歌の世界でも、そういうことがあったのかもしれません。

ただ、若い頃のボクは、そういう母親に対して、「低くみられるのは知性や才能がないからであって、学歴は関係ないだろ」と思っていました。今でも基本的にはそう思いますが、すべての人間が才能豊かなわけではないのだし、知性や才能だけが人間の価値ではないです。

出産後の母親(70〜80年代)は、養護学校(特別支援学校)の介護職員になりますが、ここでも大卒の教員と軋轢があったのかもしれません。今回、葬儀の電話をしていて、反応が冷たかったのは、この時代の教員系の人たちです。逆に、当時の生徒や介護系の人たちは葬儀に駆けつけてくれました。障がい者の場合、卒業後も地域のネットワークで関係が続いていくことが多い、という事情もあります。車いすで焼香している元生徒を見て、「虚しい人生なんかじゃなかったよ」と、目が熱くなりました。

80年代末からは、小学校の事務職員として働くようになり、定年を迎えました。職場関係の人で、葬儀に来てくれた人の多くは、この時代に人たちでした。学歴にまつわる愚痴がまったくなくなったわけではないのですが、それでも、定年後もしばらくの間は、一緒に旅行に行くなど、人間関係が続いていたようです。人生最後の職場の人間関係が比較的良好だったのは、本当に幸せだったと、今さらながら思います。

今年の10月22日にも、この職場のOB会があって、衆院選挙の後にボクが連れていく予定だったのですが、台風が厳しかったため、ドタキャンすることにしました。電話をして「今回は残念だけどまた来年」と話をしたのですが……、それはかなわぬ夢となりました。こんなことになるなら、台風の中でも連れていくべきだったかも、などと考えてしまいます。10月以降の母親には、不運が続いていたように思えて仕方ありません。

ただ、現在(当時)の母親は、働いていた頃とは別人のようになっていたので、そんな姿を昔の同僚にさらすのは可哀想だという考え方もあります。1年前のOB会にも、ボクが連れて行きましたが、昔の同僚の方も、母親の姿を見て、良い意味でも悪い意味でも感じるものがあったと思います。「ここまでしてくれるなんて立派な息子さんね」と言われましたが。(笑)

いずれにしても、82歳にもなれば、人間関係が希薄になっていくものだし、認知症の症状も出ていた母親にとっては、やはりボクと過ごす時間が最後の幸せだったのでしょうか。そうであってほしいと思いますが、やはり切ないです。

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