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2017年12月20日12:48

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飽和と過剰

■揺らぐ「ものづくり大国」=品質不正問題、日立に波及
(時事通信社 - 12月20日 09:05)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=4911609

 パン屋さんは毎日パンを作ってみんなに売ることで現金収入を得る。

 食べ物はたいていその日のうちに胃の中に飲み込まれてうんこになってまたすぐにお腹が空くから次の日にはまたパンを買いに行く。

 日本人がこの数十年間造り続けて来た工業製品は品質が良くそうそう壊れるものではないので新しく買い替える必要性が次に訪れるまでにかなりの時間がかかる。買い替えるときでも今まで使っていた古いものはまだ十分に使える状態であることも多いため、中古品として他の誰かの生活の道具として利用出来てしまう。自分の家でもつい最近までブラウン管の14型テレビを毎日見ていた。中古品市場は膨れ上がる一方で品物も豊富。

 新しいものを売ろうとして製造側は頑張っているけれど売り方を見ていても、ポイントを差し上げます、とか、あとから現金をお返しします、とか、苦し紛れの作戦を打たないといけない状況で見ているこっちも苦しくなってくる。

 何も無いところにラジオが発売されたり洗濯機が発売されたりした時と同等の衝撃や歓喜を伴って発売される品物はそうそう出てくる気配はない。品物の価値は新機能が付いたからと言って最初にそれがこの世に登場した時のような斬新さを伴う程ではないのが現実。今は既に暮らしにとって必要にして十分なモノで世の中はあふれているのだ。

 先進性を売りにすることで購買意欲を煽りたいのかコンピューター制御の車など、いわゆる便利なモノ、自動でやってくれるモノ、がどんどん売りに出されて行く傾向にあるが、回転ノブをぐるぐると手で回して窓を開けるような5速ミッション車や箒と塵取りなどのように手足を使って人間と共に暮らしていくような、立派なモノ、なんかはとっくの昔に姿を消してその価値は失われてしまったかのようだ。
 作る側というのは日進月歩で前進したいのかもしれないけれど、人間の姿かたち機能暮らしというものは別段日進月歩で進化していくものではなく、片手鍋や包丁、のように平安の昔から延々と同じものを使っているようなある意味では単純な生き物のままなのである。そしてこの先もなおそのまま生きて行くのだと思われる。単純なモノ、のほうが使う人間を活かすという意味では、優れたモノ、だと自分は感じてしまう。製造会社が造るものが進化や未来だという印象をみんな受けてしまいがちだけど、足元をすくわれているだけとも言えそうだ。便利なモノ、の普及で人間は退化することもある。動力以外全部手動でマニュアルな車を新しく作るなんてことは暴挙なのだろうか。

 製造側はこの数十年間で巨大な企業に成長して関連企業とともに現在の規模を作り上げてきた。この経済団体の姿かたちを維持することが困難になってきたことが様々な形で表れて来ている。会社の歴史や在り方理念、出来上がって来た仕事のやり方や社会的な関係性、会社の日常を根底から作り替えることは難しいことで結果としてこういう形で少しづつ崩壊していくことは必然とも映る。何かしらのきっかけを得るか、さらに崩壊していくか、いずれにしてもだらだらとした下り坂の岐路を日本の大企業は経験する時代になっているんだろう。

 悲しいことでも何でもなく人間はよりよく暮らすことを考えて一生懸命生きて行けばいいのだから製造業者には悪いけれど一般人としては、モノ、はそんなにじゃんじゃん世に出してもらわなくってもかまわない、すでに十分使えるいいモノであふれているんだから。製造業はいいものを売れる分だけ出してくれればいい時代になって来たんだろう。あぶれた人が出る、税収が減る、景気が悪くなる、色んな弊害や敗北はあるんだろうけど次を考えるしかない。

 業績重視であらゆる競争を展開して来た歴史の果てで右肩下がりを是とすることは気持ちが許さないと思うけれど、過剰なものはいらないから、いいものをまじめに売ってほしいと思う。他社との競争で過剰に設定した自慢の製品の質を下げることの意味を再考してみれば、ごまかしたことの謝罪という形ではなく、必要十分な線まで品質を落とし尚且つ値段も相応に合わせるという発表で表現できる場合も多々あるのではと想像しているがどうなんだろう。


 品質の向上や研究は大切な活動だと思うけれど、一方で過剰な競争は人類にとって何だったのか、よりよく暮らしていくということに集中して、手と足を使ってもう一度考えてみたい。
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