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2017年12月19日00:02

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12月19日の日記

今日の出来事:1614年−大坂冬の陣:木津川口の戦い、1910年−徳川好敏が代々木錬兵場でアンリ・ファルマン機を操縦し、日本初の動力飛行に成功、1916年−第一次世界大戦:ヴェルダンの戦いが終結

今日は、大坂冬の陣:木津川口の戦いです。1603年、徳川家康は伏見城で征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開きました。そして、徳川秀忠の娘・千姫が秀吉の遺言に基づいて子・豊臣秀頼に輿入れしました。1605年、家康は将軍職を辞して秀忠に譲りました。これは天下にはもはや豊臣家ではなく、徳川家が君臨する事を示すものでした。1608年、家康は秀吉が建立した方広寺大仏殿の再建を勧めました。1614年、豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿が完成しました。総奉行の片桐且元は、梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓に選定させました。家康は五山の僧や林羅山に鐘銘文を解読させました。それが「国家安康君臣豊楽」の「方広寺鐘銘事件」です。徳川家康の「家」と「康」を分断し「豊臣」を君主とし、家康及び徳川家を冒涜するものと看做されました。これが「大坂冬の陣」のきっかけとなりました。豊臣家では旧恩ある大名や牢人に檄を飛ばし、戦争準備に着手しました。集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人で、真田幸村、長宗我部盛親、後藤又兵衛、毛利勝永、明石全登ら五人衆のほかに、塙団右衛門、大谷吉治などがいました。彼らはいずれも関ヶ原合戦後に御家取り潰しなどに遭って徳川家への復讐に燃える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者などで、歴戦の勇士が多く士気が旺盛でした。豊臣家宿老・大野治長の周辺に砦を築いて、大坂城に籠城する作戦が採用されました。家康は軍勢を率いて駿府を出発し、二条城に入りました。その後、徳川秀忠が6万の軍勢を率いて江戸を出発しました。家康は藤堂高虎・片桐且元を呼び、先鋒を命じました。 幕府方の動員した兵力は約20万に上りました。福島正則や黒田長政らは江戸城に留め置きとされました。12月15日、家康は二条城を出発し、奈良経由で大坂に向かいました。18日、家康は先着していた秀忠と茶臼山城にて軍議を行いました。12月19日、戦闘は木津川口の砦ではじまりました。豊臣方は、大坂城から海に至る要衝である木津川口に砦を築き、明石全登を守将に兵800で守備させていました。幕府軍の蜂須賀至鎮はこの地を偵察し、徳川家康に攻略の許可を求めました。家康は浅野長晟、池田忠雄と協力し、兵を損じない事を条件にそれを許可しました。しかし、蜂須賀至鎮は共同作戦では手柄を独り占めできないため、抜け駆けして単独攻撃を行いました。明石全登は大坂城にいて不在だったため、守備兵は統制が取れずに砦は陥落しました。予定の時刻どおりに進軍していた浅野長晟は蜂須賀勢の抜け駆けを知り、進路上の河川を急いで渡河しようとして多数の溺死者を出してしまいました。こうして、「大坂冬の陣」がはじまりました。

次に、徳川好敏が日本初の動力飛行に成功です。徳川 好敏は「御三卿」の一つ、清水徳川家第8代当主で、日本陸軍の航空分野を主導した軍人です。1910年12月14日、代々木錬兵場(現・代々木公園)で滑走試験中の日野熊蔵は60メートル程度の飛行に成功しました。しかし、「飛行」ではなく「ジャンプ」であるとし、航空力学的にも初飛行とは言えないと、公式に初飛行と認められませんでした。12月19日になって日野熊蔵・徳川好敏の両方が成功し、これが初めて動力機初飛行として公式に認められました。これは、徳川家の血筋である好敏に「日本初飛行」の栄誉を与えたいという軍の意向だったと言われています。 しかし、当時天才発明家などと報道されていた日野熊蔵の方が遥かに有名人で、新聞記者も徳川好敏には直前までほとんど取材活動をしませんでした。この事から、12月19日は「日本初飛行の日」とされました。

最後に、第一次世界大戦:ヴェルダンの戦いです。ドイツ帝国は膠着した戦況を挽回するため、参謀総長エーリッヒ・フォン・ファルケンハインの発案により、目標をパリへと続く街道にあるヴェルダンに定めました。ここで大量の損害をフランスに与える事により、フランスが戦争を継続できなくなるよう企図したのです。ヴェルダンには環状分派堡と呼ばれる形式の要塞があり、その要塞の中核となる都市や町の周囲に多数の堡塁を巡らせていました。2月21日午前7時15分、ドイツ軍は重砲808門、野砲300門で砲撃を開始しました。ドイツ軍は広正面中のある一点に対して急襲を実施し、攻撃第2日目にはフランス軍第1陣地の3拠点を奪取しました。その翌日には3拠点に隣接する両翼の2拠点を奪取し、第4日目には第2陣地の1拠点を突破し、その翌日の25日にはさらに前日奪取した拠点に隣接する数拠点を占領しました。そして第3陣地の一部である永久堡塁、この付近の最高所であるドォーモン堡塁を占領しました。こうして2月28日までには深さ7km、正面実に45kmのフランス軍陣地を奪取し、フランス軍第4陣地と対峙する事となりました。一方、フランス軍は第2線師団を招致し、第1線師団と交代して新鋭部隊をもってドイツ軍の攻撃に抵抗していました。「ソンム攻勢」のために準備されていた第2線師団を続々増援し、司令官にフィリップ・ペタン将軍を当てました。 ペダン将軍は頽廃していた士気を回復させ、ジョッフル将軍の招致した第2線師団を次々にヴェルダンに投入しました。これにより、乱れていたフランス軍の足並みがそろい始めました。ドイツ軍は攻勢のために生じた損傷や疲労のため一時攻撃の手を緩めた事により、攻撃は進展しませんでした。3月4日、第5軍は攻撃方針を改め、ミューズ川右岸の攻撃を廃し、両側を攻撃してヴェルダンを包囲する事に方針を変えました。そのため、4個師団が増強されました。2日間の砲撃の後、3月6日に攻撃が開始されましたが、急襲的効果はなく、フランス軍の新鋭部隊により損害が増えました。ミューズ川左右両岸で両軍の執拗な争奪戦が生じ、ヴォー堡塁や死人丘では惨烈極まりない戦いが展開されました。5月初句、ペタン将軍はラングル・ド・カリー将軍の後を継いで中央諸軍司令官に転出し、ヴェルダン地区防衛はニヴェル将軍に任されました。6月7日、ドイツ軍はようやくヴォー堡塁を占領しました。しかし、ドイツ軍の攻撃はそれまででした。イギリス軍による「ソンム攻勢」とロシア軍による「ブルシーロフ攻勢」が起こり、ドイツ軍はそちらの方面に戦力を回さなければならなくなりました。8月からは攻守交替してフランス軍が反撃に転じました。10月24日と12月15日の攻勢ではドォーモン堡塁やヴォー堡塁など多くの失地を回復しましたが、この戦いで移動弾幕射撃がフランス軍で採用されました。ドイツ軍はヴェルダン戦の攻撃で固定弾幕を躍進させる事により、歩兵を援護する方法を用いましたが、フランス軍の発案した移動弾幕射撃はこれをもっと進化させたものでした。一連の回復攻撃により、12月中旬にはドイツ軍に占領された全地域を取り戻しました。こうして1916年2月〜12月16日までに、フランス軍162308人、ドイツ軍100000人の死者を出し、ファルケンハインの作戦は失敗しました。両軍合わせて約70万人以上の死傷者を出しました。フランス軍は多大な消耗をしましたが、ドイツ軍もまた同等の消耗を強いられました。攻防戦の最中、ファルケンハインは責任を取る形で参謀総長の職を辞し、ルーマニア攻略戦の司令官に転出しました。

今日の誕生日:大前均、モーリス・ホワイト(Earth,Wind & Fire)、岡本麗、香川伸行、YU−KI(TRF)、国実百合、谷川流、アリッサ・ミラノ、反町隆史、岩尾望(フットボールアワー)、藤崎奈々子、河野明子、佐藤江梨子、松下萌子、李忠成、石井慧、濱田崇裕(ジャニーズWEST)、三浦皇成、坂巻優里亜(元美少女クラブ31)

今日の記念日:国際南南協力デー、日本初飛行の日

今日の「今日訓」:本日は、1910年に徳川好敏が日本初の飛行に成功した事で「日本初飛行の日」、1978年の国連総会で「ブエノスアイレス行動計画」と「発展途上国の技術協力の推進と実施」が承認された事を記念して「国際南南協力デー」となりました。
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