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2017年12月16日20:18

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境界線

「金スマ」から飯島愛さんにメッセージ
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=84&from=diary&id=4906132

 生きて行く生き物には超えてはならない境界線がある。

 境界線を越えてしまった時、生き物は死に取りつかれてしまう。

 生き物は人間に限らずもともと全て生老病死なのであらかじめ生と死はその心身や人生に混在しているけれども、命が燃え盛っている間は生と死の間にははっきりとした境界線が存在する。人にはそれぞれ違ったそれぞれの寿命というものがあり、いずれは誰しもが生と死がまじりあって迎える混沌とした晩年を過ごすことになる。

 生と死がまじりあうということは、死に取りつかれた生を送るということに等しい。

 飯島愛さんは若くして死に取りつかれていた人だったと思うのだ。


 あの人の根底にあったものを一言で表現するなら自分は、捨て身、という言葉を当てる。捨て身、というのは、おそらく晩年の状態に近い。

 命が燃え盛っていて当然なはずの思春期に何らかのいきさつで境界線を跨いでしまって、生と死がまじりあった混沌とした状況に置かれているような人は増える一方なのではないのか。欲望や快楽、怠惰な暮らし、いじめや虐待といった粗末な扱い、愛されない現状、孤独、不安、苦悩、感情、それらは生きて行く姿の一つである一方で、死の分身であり死の子供達である。辿って行くと甘美な死が口を開けて待ち構えている。死は全てを飲み込む小さな黒い穴であり、その向こう側には自由が約束されている。生き物の憧れが約束されている。その通行手形を渡す関所が、死、なのだと思う。


 飯島愛さんは捨て身で生きていた。辛辣なところ、権力に立ち向かえる姿勢、彼女が見せてくれた姿、態度、は生きて行く為の勇気というよりも、死を覚悟したものが持つ玉砕だった気がする。

 命が燃え盛っている間であれば、境界線を引き直すことは可能だったと思う。飯島愛さんはそのことを模索していた気がする。しかし実現には至らなかった。



 今回の金スマで発表された飯島愛さんに対する番組の想い、自分はこの番組は知ってはいたけれども見ていたわけではなかった。記事を見る限りでは、勇気だったのか玉砕だったのかの判別を感じられるものではないところが自分は気になっている。柔らかく暖かく優しさに満ちているようになんとなく感じさせるものだけれども、勇気なのか玉砕なのかそれをはっきりと感じさせる線引きが感じられないので、この番組自体が飯島愛さんが生きた混沌に足を突っ込んで存在しているような感覚も覚えてしまう。

 飯島愛さんのような人がたくさんいるということの時代の混沌を象徴した番組内容に図ってなのか図らずなのかはわからないが結果として成っているような気がしてしまう。

 この番組がどれぐらいの人の心に訴えかける番組なのかは定かではないが、ある程度みんなが見る時間内に設定されて放送されている以上一般民衆を意識して制作されたものだと考えていいんだろう。そう考えたとすると、つまり時代は死という甘美な欲望の親玉に取りつかれているということを言ってしまっても過言ではない現状とも取れる。

 取り越し苦労で済めばいいんだけど。


 命が燃え盛っている間は境界線を引き直すことは出来ると思う。

 

 

 
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