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2017年11月30日08:25

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11/23〜11/26九州オルレ・天草松島△千巌山162m

高山を降りて、長い洞窟のような竹林の道を抜けると、(ガイドが言うには、韓国の人は竹林が大好きで、この道はお気に入りだという)外浦海岸に出てくる。千畳敷のような海岸線を歩く。岩がゴツゴツしていて歩きにくい。海を隔てて、八代の街が望まれる。八代のことを地元の人は「やっちろ」と呼ぶそうだ。峠を越えて、下山地区に下りてくる。ゴールの千束天満宮までの海には、「車えび養殖場」があり、ここは日本の車えび養殖発祥の地だという。
泊まりは、「松島観光ホテル岬亭」だった。泊客の半数は、韓国の人で、そのうちの10人ほどはゴルフを楽しむ人達だった。天草には、2ヶ所ゴルフ場があるという。

11/25,今日は、九州オルレ・松島コースを楽しんだ。スタートは知十(ちじゅう)バス停8:10で、この語源は済州(チェジュ)島から来ているらしい。知十観音(よだれの観音様として有名)を過ぎて、知十海岸へ。ここには、[みさご]が多く飛来するという。鳶に似た鳥で、急降下して魚類を捕まえる。この鳥を模して造ったのが、{オスプレイ}だという。「千元の森」に取付く。ここには、<陣竹>という細い竹が密集しており、地主と地主が境界を定めるのに陣竹を植えたという。三角点のある、千巌山(せんがんざん)△162mの頂上に着いた。10:40。
ここは、天草島原の乱(1637年)の時に天草四郎が、この山頂で出陣の祝宴を張り、杓子で酒を酌み交わしたという言い伝えから、昭和8年までは「手杓子山」と呼ばれていた。日本国立公園生みの親・田村剛博士が、この山に登山して、あまりの奇岩・怪岩に感嘆し千巌山と命名したという。{天草四郎}・・・本名は益田四郎時貞。父は、小西行長の遺臣・益田甚兵衛。16歳で総大将となった。

1637年、天草島原の農民たちは、徹底的なキリシタン弾圧や過酷な年貢の取り立て、そして打ち続く飢饉によって、絶望的な状況に追い込まれていた。10月、人々は天草四郎を総大将とし圧政に対して立ち上がった。12月、蜂起軍は島原に全軍が合流し、原城跡を修復して立て籠った。この3万7千人の軍勢に、落城までの3ヶ月間、落伍者は、ほとんど出なかったという。
幕府軍は翌年1月、原城への強引な攻撃で、上使・板倉重昌が討死した。その後任の松平伊豆守信綱は、オランダ艦船による砲撃をさせながら、兵糧攻めを行なった。2/27〜2/28の幕府軍(12万5千人余り)による総攻撃によって、3万7千人余りの一揆軍は落城した。

千巌山は360度の展望で、日本三代松島の一つである「天草松島」や「湯島」が望まれる。
ここは島原半島と大矢野島の間にある島で、島原と天草の首謀者が集まり、天草四郎を大将として決めたことから、談合島ともいう。
眺めは東には、「観海アルプス」があり、高舞登山△117m・白嶽△373m・念珠岳△503m・龍ヶ岳△470mと続く。南には、九州百名山の次郎丸嶽△397m・太郎丸嶽△281mが望まれた。この山は火山ではなく、「ケスタ」と呼ばれている。ケスタとは、侵蝕に対する抵抗性の異なる地層が、交互に重なり合ってゆるやかに傾いている場合にできる、非対称の山稜のことで、パリ盆地が有名である。
千巌山を降りて、松島展望台に立ち寄り「龍の足湯」がゴールとなった。11:00。
新門司港19:50発のフェリーで、12/26朝8:30大阪南港に戻ってきた。

島原天草の乱は、日本史上、最大規模の一揆かつ宗教戦である。
キリシタンたちの結束は固く、関ヶ原の合戦をしのぐ死者を出した。キリスト教は、[神の前の平等]を説く。幕府は、絶対的な存在であるはずの将軍の威光を損なうことを恐れ、乱の翌年から外国との交流を絶ち、日本は220年にわたり「鎖国」をすることとなる。
1873年(明治6)にキリスト教が、解禁になった。

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