前半と後半で内容がかなーり異なります
11月26日の肉まんCook教室の写真(108枚)をそのグルチャアルバムにUPしたら、予想外に好評でちょっと感動(´ω`)
当日、スマホを忘れて眼レフしか持ってないという状況になり、偶発的に撮影することに。
講座的な場で物々しい大型デジタル一眼レフを振り回すのはどうかと思っていたのでこれまでやらなかったけど…
アルバム公開後、わざわざLINE追加してまで感謝を伝えに来た人が居て、やってよかったんだなと思えました
まる
〜こっからちょっとカメラの話〜
使用機種はCanonの「10D」
2000年初頭の、デジタル一眼レフの元祖。当時のフラッグシップ機だけに、旧式化しても戦力はあるのです(´ω`)
今回も撮影は ほぼ全てフルマニュアル。
むしろ取りまくった理由は練習目的も大きい(^ω^)
昔、銀塩(フィルム)カメラでも数百枚撮ってた経験が下地なのです。
モデル名不明の手巻きカメラ、EOS1000、5D Mk2… 何台か振り回してます。
「写真は、その時間を切り取れる。
見ればその時間を、再生できる」
それらカメラ自体と、それを手にする自身の写真は 残ってないけれど。
撮っては居ないけども。
心のフィルムに写ったそれは残っている。
ファインダー越しに脳裏に焼き付けた構図はセピア色に褪せる事もない。
死ぬまで?いいえ、死んだ後も、です。
素敵な思い出はあの世に持っていける唯一の財産です。
仏教では「無知を知に変えてゆくのが人生」という教えが有るそうな。
つまるところ、儂はおもうた。
『人生とは、心のアルバムに素敵な1枚を萃めてゆくことである』
「萃(あつ)める」とは、あつめること。
「集める」が物理的なそれ、
「蒐める」が嗜好的なそれであるなら
「萃める」は特に「想い」を指している。
「人生の宝物を探しに行こう。」とかよく聞きそうなフレーズだけど、こうして改めて考えると やはり深いもので。。
この一枚も、そんな1シーンのひとつです(´ω`)
〜なぜ此のような話を思いついたのだろう?
あゝそうか。
わしには最高の先輩たちが何人も居ます。
みんな最高に素敵な心の写真を納め続けている、最高に楽しそうな最高の大人達。
その筆頭が一人、長友清さんの命日が今日。思うところがあったのか、はたまた氏の引き寄せか。
思い浮かぶれば 涙も浮かぶ。
何故泣くか?悲しいから?いや、むしろ嬉しい気さえする。ただただ流れるのみ。
いつ思ってみてもそうなる人って、凄いと思うよ本当に。
これを以て 追悼とせん。
感謝合掌、黙祷そして感謝っと。。。
〜たまには語りたくもなる(´ω`)
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