エジプトで武装集団がモスク襲撃、235人死亡 負傷者多数
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神は存在する?
そんなことはどうだって構わない。
花、木、鳥、原子、細胞、バクテリア、分子、、、光
全ては取りかわし生きている。
その内側から
神を信じるか、信じないか。
どうだって構わない。
なぜなら私たち自身がその証だから。
望もうと望まなくとも 私たちの考えは神の考え、
歩むべき道は神の通った道を歩むのですから
神は慈善団体でも宗教取扱所でもない。
神は神である、光の内側にある なんらかのもの それだけのこと。
そして人間は地球と同様に宇宙も同じ動きで定められている。
祈りとは その存在とともに存ること、その存在と一体となった自分を信じること。
宗教がこういう工合に一つの型をつくって私たちにしているのはまことに便利なことです。
何か手がかりがない事には、私たちはほんとうに困ってしまいます。
具体的に神を与えないかぎり、宗教には何の意味もなく、実際に方法を教えないかぎり、人は神にじかに申上げるすべを知りません。
人は祈りを捧げながら、何か別のことを考えては居りません。
そこで邪念が入ったので祈っていることにはならないのです。
自分をよりよき物にしたいという願いがもとにあるにしろ、それさえ忘れることが真の祈りとは言えない。
しかし それすらも一つの慾に違いないのですから
そういう風に 我が身も心をささげつくして、すべて忘れ、すべて神様におまかせする。
お祈りとはそういう物をいうのですから 何とむずかしい行為でありましょう。
その神に祈る姿は、人間において最も美しいものの一つでもあるはずなのに、どんな無智な人でも一心不乱に祈る時は いかなる聖者にも劣らぬ 犯しがたい美しさにあふれる。
寒夜に田舎で太鼓を叩いているおばあちゃんの方がはるかに神様に近いのではないか などと思う時もあります。
彼らは犬に一人の主人しかない様に、信仰を通じて、一つの存在しかみつめていません。
それだけがたより、、、生きる為にただそれだけ必要なのです。
そして死んだらうたがいもなく極楽に行けると信じ、安心し切っています。
安心出来るという、これ以上の強味は人間としてないわけです。
もし祈りが実現されるとしたら それはブーメラン効果
架空の誰かに祈りを捧げることで自分の中のエゴイズムを抑え、自然の流れに身を委ねることができたためなのでしょう
つまり祈りとは 自分に返ること。
それはつまり神に立ち返ること。。。
神よ 感謝します を言うために 歩みを止めても意味はないのです。
そうやってゴルフしたら なれるわ
すごいことです。
とっても疲れるけど そうなって感謝してたらええねん
そんなの叶えられても一年に一回もあればいいけども それすら慾
何回優勝したらええねんということ
宇宙と繋がる あの有名なモノ
祈りの棒でなにもかも叶えた奴もいるが 結果 とてつもなく会社をつくり裏で財を成し得て そんな策士になって も 結果なくなりましたよね
人間ってホント 変なやつ多いですね
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