mixiユーザー(id:26363018)

2017年11月25日22:01

821 view

慶應義塾大学医学部管弦楽団 第41回定期演奏会

心一つに奏でる繊細な響きに溢れる涙。

☆慶應義塾大学医学部管弦楽団 第41回定期演奏会
■2017年10月8日(日)開場17:30 開演18:00
■めぐろパーシモン 大ホール
■曲目
♪ヴェルディ:歌劇「シチリア島の夕べの祈り」序曲
♪ドリーブ:バレエ「コッペリア」より抜粋
♪ブラームス:交響曲第2番
■指揮:佐藤 雄一

フォト

懐かしい思い出の(笑)めぐろパーシモンホール。

フォト

舞台の上にシャンデリアがあるホールというのは珍しい。

:♪*:・'゚♭.:*・♪'゚。.*#:・'゚.:*♪:・'.:♪*:・'゚♭.:*・♪.:♪*:・'゚♭.:*・♪'゚。.*#:・'゚.:*

♪ヴェルディ:歌劇「シチリア島の夕べの祈り」序曲
この曲は、2013年の流山フィル第44回定期で一度聴いているが、今回初めてのように新鮮に聴いた。
フランス軍によるシチリア島の抑圧を巡る、抑圧と暗殺計画、愛と葛藤、そして暴動の悲劇を描いている。

冒頭から沈んだ葬送の雰囲気である。
抑圧されて生きるシチリア島民の生活だろうか。
重いリズムを底に鳴らしつつ、思いを込めて歌うメロディー。
それが一転、ダン!ダダン!というリズムが叩きつける激しい音楽になる。
この急激な変化は実に鮮やかだった。
激動の幕開けだ。

その後も音楽はコントラストの強い場面転換を続ける。
重く沈んだ後に「椿姫」を思わせる優雅な音楽となり、それが行進曲調となり、再び激動の音楽へ。
弦のトレモロが静かに流れる美しい部分を挟み、また激しい部分を挿入しつつ「椿姫」を思わせる部分。
再度行進曲調となり、最後のクライマックスへと盛り上がっていく。
ただし、クライマックスに向けてのリズムの重さには課題があると感じた。


♪ドリーブ:バレエ「コッペリア」より抜粋
3曲目の「スラヴの主題による変奏曲」が特に心に残った。
主題と五つの変奏。初めて聴いた曲。
ストーリーに関係なく、色々な踊りを見せるための曲。
ところが、これが素晴らしい演奏で、中プロでも聞き応えのあるものになっていた。

主題提示の部分から、弦楽器が非常に細やかなニュアンスと音色で演奏していた。
どの変奏もそれぞれの特色と楽しさを引き出していたが、特に印象に残ったのが第2変奏だった。

この曲でヴァイオリンが、アッと驚く素晴らしい演奏を聴かせた。
ソリスト向けの超絶技巧の華麗なパッセージを、ヴァイオリンが全員で一糸乱れぬアンサンブルで引き抜いたのだ。
例えて言うとモーツァルトの「ハレルヤ」を合唱で歌ったようなものだ。
上手さにも驚いたが、どれほど練習したのだろうと思うと、彼らの努力に胸が熱くなった。

:♪*:・'゚♭.:*・♪'゚。.*#:・'゚.:*♪:・'.:♪*:・'゚♭.:*・♪.:♪*:・'゚♭.:*・♪'゚。.*#:・'゚.:*

♪ブラームス:交響曲第2番

第一楽章と第四楽章で、涙が溢れ流れて止まらなくなった。

その後も自家録音で繰り返し聴いているが、飽きることがない。
演奏の隅々まで、ブラームスの音楽の滋養が行き渡っている。
オケの一体感、深みのある音色表現の多彩さは、何度聴いても驚くばかりだ。


ブラームスは佐藤雄一氏の十八番であり、様々なオケと名演を生み出してきた。

流山フィル、東京薬科大学ハルモニア管弦楽団、横浜シティ・フィルとの4番。
慶応医管との1番。
シンフォニア・ズブロッカとの3番。

今回の、慶応医管との2番は、過去の名演をも凌ぐ超名演だったと思う。
ブラームスの音楽の深遠さを、震撼させるほどに描き出していた。

どの楽章も素晴らしかった。
ここでは特に、ブラームスの深さも恐ろしさもよく出ていた第一楽章について述べたい。

私が愛聴しているブラームスの2番はクレンペラー指揮の演奏だ。
フォト
これ以上の演奏は考えられないという名演だ。
しかし、佐藤雄一氏は、音楽から何を読み取り表現するかという点で、クレンペラーをも凌いだ。

遅めのゆったりとしたテンポで、しかも非常に繊細で濃密な音楽だった。
交響曲第2番は、ブラームスの「田園」と呼ばれることもある。
しかし、その光景は、あたかも夕焼け空の1番美しい時間が、延々と続いていくかのようだった。

夕焼けの黄昏時を【君の名は。】では「片割れ時」という呼び名で表していた。
フォト

映画では「片割れ時」を生者と死者が出会う時としても描いていた。
佐藤氏と慶応医管による第2番は、命輝く「田園」交響曲でありながら、死と隣り合わせの暗さや厳かさ、静謐さも感じさせた。
まさに「片割れ時」の音楽だった。

交響曲第1番より早く完成させた「ドイツレクイエム」に現れているように、ブラームスは、常日頃から死を身近に感じていたと思われる。
フォト

「メメント・モリ」(死を思え)は、ブラームス作品の隠れたテーマと言えるかもしれない。
それゆえ、佐藤氏の第2番の描き方は、とても説得力があった。

主題提示部を、佐藤氏は常にきちんと繰り返す。
大体、繰り返した二度目の方がこなれたよい演奏になり、その後の展開部の意味や面白さがより際立ったものとなる。
胸を打ったのは、繰り返した二度目の演奏で、音楽が一層密やかに、ささやくような繊細なアンサンブルとなったことである。
これは恐らく楽譜の指示にあることで、普通なら盛り上がるところを逆に音量を下げるのだ。
提示部の一度目も音量を下げていたが、二度目の演奏の繊細さには涙がとめどなく溢れた。
奏者たちが心を一つにして奏でた、室内楽的に響く交響曲…
そのあまりの美しさに泣けてしまったのだ。

そして、展開部。
「田園」と比べるならベートーヴェンでは第三楽章のスケルツォの後に嵐が来る。
しかし、ブラームスでは第一楽章の展開部に嵐が来る。
だが、これは「嵐」などという生易しいものではなかった。

黙示録的な音楽だった。
慶応医管の端倪すべからざる奏者たちは、信じがたい表現力を発揮した。
特に金管楽器の荒々しい咆哮には身の毛がよだった。
低音の「ブォーン」という地の底からの響きは、恐怖とともに一度で脳に刻まれてしまった。
今度は恐ろしさで涙が止まらなかった。

――学生オケがこんな、というと失礼だが、信じられないほど巨大な音楽だった。
これほど巨大な音楽、というか演奏は、クナッパーツブッシュがウィーン・フィルを指揮したワーグナーの「ジークフリートの葬送行進曲」位しか私は知らない。
フォト

佐藤氏と慶応医管は、そういう巨大で畏怖させる世界を表現したのだ。

嵐の後の音楽の美しさは、雨後の澄んだ空気さえ感じさせた。
いかに音色表現が優れていたか、である。
再現部が、ほとんど提示部と変化のない繰り返しなのは、自然の再生力を信じようとするブラームスの思いだったのかもしれない。
全ては浄化され、元に戻るのだ。

――だが、実際は何もかも引き返すことができないところまで来ており、決して元には戻らない。
ブラームス自身が、一番それを分かっていたのではなかったか?

:♪*:・'゚♭.:*・♪'゚。.*#:・'゚.:*♪:・'.:♪*:・'゚♭.:*・♪.:♪*:・'゚♭.:*・♪'゚。.*#:・'゚.:*

昨年も、かつて聴いたことがないレヴェルに達していた慶応医管。
今年はさらに表現力を増していた。
青春の最も大事な時間を音楽に捧げた若者たちに、深く敬意を表したい。

2018年の定期演奏会も心から楽しみにしている。
4 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2017年11月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930