「共に喜ぼう」
http://9001.teacup.com/sfk/bbs/18243 (写真入り記事)
めざましい働きをすると、誰もがたたえてくれるものではないでしょうか。それが、身内や親しい人ならなおさらです。
しかし、同時に「自分もそうありたい!?」と思って、羨ましく思い、心の深いところでは、妬みの感情が生じることがあります。
親しい間柄の相手でも、そのような気持ちになることがあります。
表向きでは、「素晴らしいですね!」「よくやったね!」とエールを送り、拍手をしているのに、心の中では複雑な気持ちで悩んでいます。
これは、会社の中で力を合わせていかなければならない関係の中にも起こります。
心の中に秘めていますが、お互いに競い合い、課長レース、役員レースを行う競争相手です。
表面上は友達なのに、水面下では敵なのです。
同僚の間だけではなく、上司と部下の関係の中にもそのような競争意識が芽生えます。
そうなると、上司は、部下の手柄を手放しで喜べなくなります。
普通に考えるなら、部下の手柄は上司の手柄のはずです。黙っていても、「上司の指導が良かったから、部下が立派な仕事ができた!」と、称賛されるものです。悠然と構えていていいはずです。
でも、上司が部下の手柄によってほめられた時には、それを認めるのではなく、「君の能力と努力の結果だよ。おめでとう!」と言ってあげるべきです。
さらに、口でほめるだけではなく、お祝いの食事に連れて行ってあげたり、仕事に関係のあるプレゼントをしてあげるなどをしたらベストです。
その喜んでいる気持ちは、どんなに忙しくても、後に伸ばすのではなく、即座に伝え、その喜びを形に表してあげたいものです。
会社の経費ではなく、ポケットマネーからやると、祝ってもらった人は心から感謝をし、一生忘れられないはずです。
領収書をもらってやっているとしたら、そのお祝いを通して伝えられるメッセージの効果は半減してしまいます。
「喜ぶ者といっしょに喜びなさい。」(ローマ12:15)と聖書は語ります。
今日、あなたの身近な人、会社の同僚、部下、友達、家族などの喜びを、自分の喜びとして表現してみませんか。
「喜ぶ者といっしょに喜びなさい。」と言われた神は、まず、あなたの喜びを共に喜んでくださるお方です。
新約聖書のルカの福音書15章には、放蕩に身を持ち崩した挙句に、豚のえさで腹を満たそうとするほど落ちぶれた息子が父のもとに帰って来た話が書かれています。
父は子を無条件に受け入れ、抱きしめ、即座に宴会を開いて喜んでくれました。その兄弟の兄が妬ましく思うほどでした。
神は、今日あなたを待っておられます。神に心を向け、神に立ち返るなら、まわりが羨むほどにあなたを喜んで下さいます。
神はあなたの存在を喜び、ありのままで愛して下さっています。
こんなゴスペルソングがあります。
♪主イエスは僕の宝、主イェスはぼくの命
ぼくに代わって十字架についた、主イェスは僕の全て♪
私は、イエス様と両思いです。私に対してこのような気持ちでいて下さると信じています。
♪直基は僕の宝、直基はぼくの命
ぼくが代わって十字架についた、直基は僕の全て♪
私は、神の愛を心の底から信じています。神は私の存在を喜び、ありのままの私を愛して下さっています。
その神様が私の心の中に住んでいて下さるので、私の心の喜びは揺るぐことがありません。
私は、その神と共に、他者の喜びを自分のことのように喜びたいと思います。
他者を喜ぶということは、心の中におられる神を喜び、同時に、自分をも喜ぶことになります。他者と共に喜ぶことは自分を祝福することになります。
その反対の、他者を妬み、憎み、赦さないことは、心に住んでおられる神を拒絶し、自分をのろうことになります。人を愛さないことは、自分の体をトゲのあるムチてたたき、首を思いっきりしめることになります。
しかし、私たちには、人を愛し、人の喜びを共に喜ぶことは難しいです。「私もそうありたい!」と妬ましく思うからです。
その苦しみと葛藤という暗闇の中に、イエスが輝いています。
イエスに心を向け、イエスを心の中に迎え入れて下さい。
その時、他者の喜びを少しづつ喜べるようになっていきます。喜んだふりをしなくていいのです。イエスが心の中に来られるならば、必ず妬みは喜びに変わっていきます。
他者の喜びを共に喜ぶならば、あなたの喜びを共に喜んでくれる友達が一人増えたことになります。
どんなにめざましい業績を残し、人生において成功したとしても、その喜びを分かち合う相手がいないくらい寂しいことはないからです。
毎日みなさんと共に喜びあえることを感謝しています。みなさんの喜びが私の喜びとなっているからです。
今日もありがとうございます。素敵な一日でありますようにお祈りいたします。
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