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2017年11月03日18:25

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想像力の薄さが人間を悪魔にするが、これは違う。

9遺体 追及続けると「ここに」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=4843054

良心とは他人の痛みを自分の痛みとして受け止めることができてはじめて成立する。

老人に電車で席を譲ることが善行だと思えるのは、立つのが辛い老人の痛みを、もし自分が老人だったら辛いだろうと想像できるからで、
様々な理由で実行しないことがあるとすれば、想像する老人の痛みと、自分の本心を天秤にかけて自分が勝ると判定するからだ。
周囲に偽善者と思われる(かもしれない)自分や、断られて困惑する(かもしれない)自分と立つのが辛い(かもしれない)老人を、天秤にかけて、躊躇するのはよくあることだが、
躊躇してるうちは、良心はそこにある。良心はあるが勇気が足りないということだ。

躊躇さえしないなら、良心はない。
また、躊躇はするが、席を譲るという風潮がそもそも偽善であるから、躊躇せざるを得ない自分が気の毒と思うならやはり良心はない。善を否定したら、偽の善も存在しない。


この事件は、一体なんだろう?
犯人そのものに「死」というものに絡む悲しみや苦しみ怒りなどの感情がなければ、
想像力があっても良心は発生しないし、自己愛さえも発生しない。
こうして考えると
「ヒトを殺してはいけません」というキマリとリアルタイムで他人のいたみを自分のことのように考える能力(良心)だけでなく自己愛も人間社会に必須なんだろうと思う。
犯人にはこれから与えられる(死刑などの)罰も効き目はないだろう。

透明な存在とはこうゆうものか。

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