mixiユーザー(id:529464)

2017年10月01日22:23

658 view

オケ練のあとNHK音楽祭ペトレンコ/バイエルン国立管

本日は午前はオケ練でした。
ブラームスの2番でした。
練習で出来たことは半分も出来ず。
音色も悪く、リガチャーをいじったりいろいろしたが効果なく。

予想より早く駅に着いたので自宅に荷物を置いて以下に出直しに。

○NHK音楽祭第2日バイエルン国立管弦楽団
開演:2017年10月1日(日)15:00
会場:NHKホール
曲目:
マーラー/「子供の不思議な角笛」から*
ラインの伝説、トランペットが美しく鳴り響く所、浮き世の生活、原光、むだな骨折り、死んだ鼓手、少年鼓手
ワーグナー/楽劇「ワルキューレ」第1幕(演奏会形式)
バリトン:マティアス・ゲルネ*
ジークムント:クラウス・フロリアン・フォークト
ジークリンデ:エレーナ・バンクラトヴァ
フンディング:ゲオルク・ツェッペンフェルト

マーラー/「子供の不思議な角笛」から
自分が天井桟敷にいたため最初の曲でゲルネの声が充分届かずまずは管弦楽の感想から。
管弦楽がべらぼうに上手くてちょっと我を忘れるほど。
技術が完璧なのはもう当たり前すぎてどうでもよくて、まず非常にシンプルで分離して透明なサウンドが心の襞の内側を探るように立ち上がってくる、音の清々しさが複雑な心模様を洗練してくれるような透明さをもって音楽の表現せんとする核心部分を抉り出してゆく。
トランペットが美しく鳴り響く所からゲルネの声も天井まで届くようになり、それ聴いてもう涙。哀しすぎる。哀しいほど美しい声質。バリトンだがバスに近く若い男性兵士と若い女性の哀歌だが両者をいつくしむ慈父のようだ。(ラインの伝説でも同じ)
浮き世の生活では今度は母親役を慈父が務めたようなものだが昇天する子供を追い返すような原光とがアタッカで秀逸。一人二役でむだな骨折りが面白くご苦労様だったら次の死んだ鼓手と少年鼓手で本日の管弦楽とゲルネの頂点が築かれた。
従来の重いというよりはむしろ軽快な管弦楽に乗ってバスに近い重厚なゲルネの声が爆裂、戦争のあとの兵士の怨念のようなものが戦とはこういうものという現実と戦死者の幻視という不条理さをいやがうえにも高める。(余談ですがじゅ。の母は宇和島で戦死者のはずの隊列が寺に入ってそのまま消えてしまったのを見たことがあるという。)
そして少年鼓手は銅鑼もライトに叩かれ、まさに自分という存在が忘れ去られてしまうのを惜しむかのように終わる。
かつてジョージ・セルとフィッシャー=ディースカウの歌唱による最上の名演と、まったく別種の切り口による、また最上の名演だ。セルが時代感覚の投影と同時代性、現実的な既視感の世界とすると、ペトレンコとゲルネは回想と幻影の中から未来予想図を透視したような雰囲気だ。

ワーグナー/楽劇「ワルキューレ」第1幕(演奏会形式)
(すいません、自分はワーグナー音痴のため、まったく語彙力のない感想となりますのでご容赦ください)
驚天動地の圧倒的素晴らしさ過ぎて脳天から頭蓋骨が吹き飛びハクダミにされて還ってきたような感じだ。
これが演奏会形式でなくオペラ形式の楽劇で上演されたらどんな圧倒的なことになるのか想像することすら恐ろしい。
というか、ワーグナーが素晴らしすぎることに気づかんとする自分が怖ろしい。
終わり。

本日の演奏会で刮目したのは、マーラーの音楽とワーグナーの音楽を全く異種の音楽として演奏したことだ。
マーラーの角笛は、ガラスのような繊細な芯の周りに注意深く紗の衣を着せていくような造りで奏された。それをゲルネの温かくも慈愛に満ちた声で最後に包んだ感じだった。
それに対してワーグナーのワルキューレは最初に硬い鋼鉄の檻をいきなりかぶせて外から骨格を規定して中をすべて燃やし尽くしてしまったような凄まじい演奏だった。
これはマーラーとワーグナーの資質をよく見切っていると思う。オーストリア辺縁ボヘミアと中部ドイツの違いなのか、ユダヤとアングロサクソンの違いなのかもしれない。(キリスト的ながらユダヤ的な「原光」が角笛から選ばれているのも興味深い。)そのうえで、角笛のラインの伝説中の指輪(Ringlein)をかけた選曲なのも心憎い。
よくある、「マーラーとワーグナーは似ているから」「ワーグナーの後継者はマーラーだから」同種の音楽としてワーグナーとマーラーが同じ演奏会の曲目に選ばれているようなのとは一線を画しているのだ。
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2017年10月>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    

最近の日記

もっと見る