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2017年09月28日20:48

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数学のこと、

これは以前に友人と話したことなんだけど、上手く文章に出来る気がせず、まぁ、そのうち日記にでも書いておこう、と、思ったことで・・・、

実は高校生のころまで「数学など無価値!」とか思っていた。(今はそんなこと思ってませんよ)
何故かというとまぁ、子供の頃ボクは図書館少年的なところが在り、所謂数学(ユークリッド幾何学あたり)と言う者は神智学の一種だと思い込んでしまい、「何故そんな物を無い頭に詰め込まにゃあならんのか?)と、思ってしまった次第、

加えて中学生になり、イデア論にドップリ浸かり混んでしまったボクは、イデア界の説明本の一冊に映画に例えた物が在り、映写機とフィルムは完璧なのだけれども投写先が銀幕ではなくでこぼこの岩山のようなところであるため徹頭徹尾何を映しているのか分からない状態(つまり映写機とフィルムはイデア的であり岩山部分が現象界と言うような例え)になっている、しかし、いくら岩山でもチョットは平たい部分もあってソコでは正常に(理想的に)映像が映し出されている。そのもっとも最たる物が数学!!と、なっていた、さらに凄い事には「だから理想的であるところの数学を展開していけばやがて万象が理想的に説明されよう。」みたいな感じにくくられていたことである。

で、当時のボクは当然「冗談じゃあ無い!!」と、思った、そもそも一部分しかまともに写っていない映像から全てを算出で割り出すなどそりゃぁ頭の良い人になら(いづれ)出来るかも知れないが、ボクには無理である、また、例え出来たとしてそれを押し頂いて拝見したところでボクなどに理解できようはずが無い。じゃあ、ボクとイデアは無関係か?と、言うとそうでも無い、イデア界にはイデア的な猫や犬やキリンや蟻が存在するのである。と、なれば当然イデア的なボクだって存在していておかしくは無い。

又、理想的な犬や猫やキリンや蟻が全て数学に秀でているとは考えにくい、百歩譲ってそうだとしてもイデア的とうひではそうでは無い(ロバがイデア界に行ったからと言ってサラブレッドになるわけでは無い。)

例えばイデア的白イタチのノロイが「X匹のネズミをやっつけるためにはY匹の手下が必要だ。」等と考えるとはボクにはとうてい思えなかったわけである。

まぁ、ここまでなら要するに「馬鹿は何処まで行っても馬鹿」であることを自ら証明しているような物なのだけれど、それで終わらないから人生は面白いのかも知れない。

実は家に計算尺があった。で、こういう仕組み物には興味が出てしまうのも又事実である。学校の教科書に載っていたのか?やっぱり図書館かは忘れたけどとにかく簡単な使い方が分かったのでチョット使ってみると正解が出る。どういう理屈かは分からないけど入力(で良いのかな?)して赤い毛線の処をどうやって読むのか忘れたけどとにかくある意味瞬時に分かる。

計算尺というのは白くて分厚い定規の様な物で真ん中がスライドする。それに金属淵のガラスがこれまたスライドするように組み付けられている。使い方は全く忘れたけどとにかく操作するだけで答えが出る。計算しなくても勝手に出る。電卓なら(中のチップが計算しているのだよ)とか思える、しかし、計算尺はどう見ても木(竹?)とガラスとチョットの金属でしか出来ておらずコレに所謂「計算能力」があるとはとても思えない。ではコレこそすなわちイデア的存在の顕現である!!・・・とか考えるのは止めた方が良いと思うな、どうみても「計算器」でしょう?

そうなんです、ちゃんと理にかなった作りになっているのです、これはですね、本当に全く人間の知性の結晶と呼ぶにふさわしい物ですよ、ハイ、誤解を恐れずに言うなら人間が人間のために作った「器具」に他なりません。

で、そうなると、そう言う理解の上で言うと、あまり数学をイデアや神智などと混ぜ合わせるべきではもしかしたら無いのかも知れないと個人的には思うのです。あくまで人間が作り出した学問だと言う事です、神格化は数学それ自身のためにもならないのではないかと?

では、この (それこそ殆ど神がかったと言わんばかりの)整合性はどこからくるのか?
それが長い間の謎でした。数学に比べれば哲学の解のバリエーションというか何と言うか洋の東西を混ぜてしまうと一つのことにそれこそ万言あるいはそれ以上の解があったりとかするわけです。

ところが数学はそうはいかない誰もがある程度同じ回答に帰結しなければ恐らくそれは数学と呼べる物ではない。

しかし、何故そのような帰結が出来るのか?又、それほどの整合性を持つにも関わらず理解度に個人差があるのは何故か?

高等数学を立て板に水がごとくにサラサラと吸収理解し応用できる人間もいれば、ボクのような全くのアッパラパー、馬鹿と阿呆の二人羽織を地で行く者も一応人間としては存在しているわけで・・・、

最近思いついたのは程度の差こそあれ自我が一部情報処理を例えば自律神経系で行う場合が結構あるのでは?と、言う事で、

例えば心拍数とか体温、血圧、皮脂の分泌などを司る様な場所、何て言うか人間が人間として生きるための基本ソフト領域みたいなところを利用した思考形態を学問としたものが数学なのでは無いかと?

もっとも容易なところでは例えば呼吸やまばたき等が上げられるこれらは自我である程度コントロール出来る。

でも、もっと無自覚なところで思考領域に自我領域以外の脳神経系を利用しているとするなら、例えばHDD内に擬似メモリーをおく・・・違うかな?

犬でも猫でもキリンでも蟻でも恐らく数学など知らぬ顔の善兵衛だけれどもその生命維持システムは驚くほど数学的である、ただ人間はその思考領域から生命維持システムにアクセスし、利用することが出来る。(カラスも確か数の概念があるんじゃなかったっけ?)

そのような知性を特に嗜好する学問、それが所謂数学なのでは無いかと?
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