仮眠時間です。
核家族化した時代ですね。
どこのうちも、余裕がある時代なら、核家族もいいのかもしれません。
でも、かなりの割合の家庭が貧困層に落ちつつありますと、そこからぬけだすのは、めちゃくちゃ厳しいのですね。
例えば、すごい天才が、貧乏人の家庭に生まれたとして、日本の受験システムは現在、非常におかしく、受験予備校とか、進学塾で特訓しないと、東大には合格しません。
問題を見てから考えたのでは、遅いのです。
この問題は解いたことがあり、解き方は覚えている。
そういう人しか合格しないのです。
ひどい話が、馬鹿でもなんでも、受験のテクニックが上手い人は合格しちゃうんですね。
それは、ひでぇだろー。
大切なものは、今何が問題なのかを、発見し、解決することですね。
問題を覚えて、解くのではなく、問題意識を持って、いい問題を出す力なんです。
まぁ、老人福祉を例に取れば、予算は、減っている、年金は減っていく、長生きしている現状では、一人一人にしきゅうする形の福祉では、絶対に無理がくるのですね。
だいたい、ひどい、笑い話があり、病院の待合室で、待っていたときのことです。
今から、40年前のはなしですけどね。
役所に提出する健康診断を受けに、国立第一病院の内科の待合室で、私は待っていたのですね。
その当時ですら、待合室には、老人が多かったのです。
今日は、誰それさんが見えてないですねーとかの話題になっていました。
まぁ、病気にでもなったんでしょう、という話を誰かがして、そうですよね、来ないのはおかしいですよね。
となっていました。
これでは、サロンですよ。
お友達に会いに、病院に行ったりするんですよ。
なんだこりゃ、と呆れましたね。
でもねー。
私は、久しぶりに、10年ぶりくらいに、腰を痛めましたね。
近所の整形外科で、見てもらおうかと思いますが、今でも、サロンの雰囲気はあるなぁ。
牽引とかローラーとかかけると楽になりますからね。
いくと楽にはなりますね。
サロンはあるし。
やはり、人は、孤独では生きていけないのですね。
そういうものなので、社会から切り離された老人が、ふれあいを求めると、病院に行ってしまうのかもしれません。
孤独死の問題もあったりします。
そういうときには、江戸の長屋方式は、極めて有効です。
まぁ、普段から、街が一体になって、老人や子供の面倒を見ていると、仮に、シングルマザーになったりしても、子供の面倒を街でみてくれるようだと、子供を育てることが不安になったりしないですむのですね。
となると、子供を産むことの不安が減って、少子化を食い止めることが出来たりするのですね。
あえて、今の日本をテーゼとすると、昭和30年後半くらいの日本をアンチテーゼとして考えて、両者のいいところをいかしてみるのですね。
そういう試みを大胆に提言してみるとかが、今、日本に必要なことですね。
全く新しいものをチャレンジするのは、面白そうなのでありますが、過去にいいものがあったなら、それを活かすのも、また面白いものですね。
温故知新というのは、案外、大事なものなんですよ。
袋小路に迷ったときは、また、元の本道に戻ることが必要ですね。
核家族化を見直すのです。
と言って、大家族になれというのではなく、街で育てるという時代に戻るのが、貧困層には、極めて、有効ですね。
そうでなかったら、私は、西成のストリートチュルドレンとして、とっくに死んでいたでしょうし、高輪一貧乏なのが、続いていましたね。
街が人を育てるというのは、あるんですね。
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