父は背が小さくて150センチなかったらしい
貧乏な家の長男で遊びに行くにも背中に誰かおぶっていたって
山鳥を捕りに行くとき、背中の弟とか妹が泣くので、みんなに迷惑を掛けるからと負い目があったって
成績は良くて家で勉強する暇はないから学校の授業だけでみっちり頭にたたき込んだと
身体の大きい子達と喧嘩では負けそうだけど、勉強を教えてあげたから力の有る子も一目おくようになって安泰だったと
戦争中は衛生兵で内地に居たから、命があった
それでも一生懸命仕事をしたから、軍医にもずいぶん可愛がって貰ったと言っていた
部屋に上官が入ってくるときには敬礼して迎えないといけないけれど、丁度その時、ベッドの兵隊が大便をするのが間に合わなくて手で受けていた最中で
上官は敬礼はしなくて良しと言ったとか
そりゃあそんな手で敬礼されたら大変^^
私がアマチュア無線をしているとき、衛生兵の時に、たまたま通信隊と一緒になったとき
丸太を叩いてモールス信号にして、例えば、とんは飯食って良し、とかをモールスで打つんだって
それが読み取れないと、その人はずっとそこに残されてご飯が食べられない
おまえ達の遊びのモールス信号とは違う時代があったんだ、なんて言われた
看護師さんと結婚したいと思う人が居たけれど、2人の仲を知ってか、師長さんが、その看護師さんを大陸に送るのに船に乗せて、その船は沈んだという
その人と結婚していたら私は生まれなかった
敗戦になって隊を離れるとき、軍医がその気が有れば医療系の仕事に就くことが出来ると言われたらしいけれど
家には父親達がみんな待っているから…
福島の常磐炭鉱で働いていたから、炭鉱が廃坑になることになって、人員整理の担当になった
炭鉱夫の再就職を探しながら解雇が全員すんだとき
辞表を出したら、おまえは残って貰って良いんだと言われたという
何を言うか、みんなを首にして自分だけ残れるわけがないと、山を下りて東京に行くことにしたって
どこの年のことかわからないけれど
大学に行きたくて、勉強をして受験したけど合格はしても、働かなくてはいけないからと、その大学に行くことは出来なかったと言う
田舎の村の村会議員も務めたけれど、ある日賄賂が届いて、村会議員の議会で、賄賂のことを取り上げたら、全員が貰っていてそれをないことにしようということだったので、それにガッカリして村会議員を辞めたのだとも言っていた
弟妹家族全員が東京に越してきて、それぞれに仕事を見つけて
父は小さな町工場に働き出した
大田区の工場で車の部品の一部を作っていたらしい
労働組合を作ろうというその最初から、父は組合長におさまり、当然出世はしない、係長どまりだったか
その職場の社長のお嬢さんは中学校で私と同級生だった
マンガにそんな場面が出ると、とんでもないことになりそうな…
でもそのお嬢さんは本当に良い人だった
少ししたら自分より若い大学出の社員が上司になっていったという
町工場の仕事
設計、旋盤、溶接…あとは覚えていないけど、一通りのことはこなせたという
通勤は最初は自転車、そしてカブ、そしてスバル360
そのあとはどんな車か覚えていないけれど、スバルがお気に入りだった
趣味の多い人で、自分の趣味に使うお金を抜いてから、母にお給料を渡すから、母の家計はやりくりできずに、母は働きに出た…みんな父の道楽の所為だと、長姉が怒る
私が子どもの時には、カナリヤだったけど、その前は、ウグイスや、メジロだったらしい
それから、カメラに夢中で、小さな家なのに暗室を作って白黒の大きい写真を現像する
台所に大きなバットが置かれて、水を流しながら酢酸を洗い流す
乾かした後は、細い細い筆で修正をして
家のあちこちに、額が飾ってあった、白黒の秋の富士山とか、田舎の家に柿の木とか、林の木に絡まるツタに光が当たったところとか
そんな写真を撮りに行くとき、三脚持ちで何度か連れていって貰ったことがあるけど、1枚の写真を撮るのに何時間も同じ所に居て、お昼を食べさせて貰うこともなかった
蛇腹のカメラで、1枚か2枚撮れば良いという
そう私のおもちゃは、黒い長いフイルムの芯だったっけ
それから鮎釣り
おとり鮎を使った友釣り、腰まで川に浸かって夢中になったあげく、腰痛持ちになって
今度は湯治だ、長い休みは1週間も福島の温泉に行って布団を引いたまま入っては横になり、1日に7回も入るのだという
手術まで言われた腰痛が何年か通った湯治で治ったと言っていた
もうじき定年という頃
車の会社の下請けの人たちと東南アジアに視察旅行に出かけた
関係の工場を廻って歩くとき
そんなんじゃダメだと、口を挟むと、言われた方は面白くない顔をするけど、ちょっと貸してみなさいと、持っている道具を取ってやってみせると、口先だけじゃないことがわかって、ずいぶんビックリした顔を見せてもらったと、得意げに言っていた
当然ツアーの人達も一目置いて態度が変わったって
帰って来たあと、東南アジアで、1年とかの期間指導して貰えないかという誘いに、半分は行きたかったけど、私の母がどんな顔をするかと思ったら行けなかったと言う
そして今度はパソコン
パソコンの前に、ポケコンという時代があった
ポケットコンピューターで自分でソフトを作り、本を書いた
その本屋さんの営業で、全国の関係する学校を歩いていたのは、もう定年になってから
ポケコンの本はさほど売れず、だってめちゃくちゃ高かったし
その次にパソコンだった
このパソコンで、大田区の中小企業の社長さんの所を歩いていた
これは亡くなる少し前まで、生きがいになったのかもしれない
ネットはしないの?と聞くと、ネットをすると要らない物が増える、ウイルスとかも困るからと、ただただ計算式や、ソフトを作るためだけのパソコンだった
パソコンを新しく買うと、とにかく付いている機能を全部消してしまう、なんだか私から見たらただの箱みたいな…
人間一生勉強だ、勉強したことは頭の中にあれば、例えば泥棒にだって取られやしないんだ、と子どもの私はもう50過ぎてるのにそんなこと今ごろ言ったって
もっと早くに勉強しなさいと言う親だったらどうなのよなんて^^
父は好きに生きて、60からの定年後も、いつも何かしていたし94で亡くなるまでボケもせず、2週間の入院で旅だった
大腸ガンと膀胱ガンを80歳ぐらいで両方一度に手術して
どちらもストーマにならずに過ごせたのはとてもラッキーだったと思う
身体が痛い痛いと言って、最後の病名は、膠原病だった
女性の病気と思ってしまうからか、膠原病という診断になるまで長い時間が掛かってどうしてこんなに痛いのかと、ずいぶん嘆いていたけど
60歳からの会社組織を離れての34年という年月は、人生を2回過ごしたような…
94歳、あっぱれだったと思う
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