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2017年09月16日00:10

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9月16日の日記

今日の出来事:1180年−源平合戦:波志田山合戦、1205年−牧氏事件、1573年−一乗谷城の戦い:朝倉氏が滅亡、1600年−関ヶ原の戦い:浅井畷の戦い、1868年−磐城戊辰戦争:第二次浪江の戦い、1868年−戊辰戦争:松前藩正議隊のクーデター、1923年−甘粕事件、1948年−アイオン台風が上陸、関東地方と甲信越地方に大きな被害、1954年−国営競馬を引き継ぎ、日本中央競馬会が発足、1961年−第2室戸台風が近畿地方に上陸、死者行方不明202人

今日は、源平合戦:波志田山合戦です。後白河法皇の子・以仁王は東国の源氏諸氏に対して平家討伐の令旨を下し、伊豆の源頼朝をはじめ甲斐国、信濃国へ伝達されました。伊豆の頼朝は伊豆・相模国の武士を率いて挙兵し、「石橋山の戦い」で平家方の大庭景親が率いる軍勢に破れて敗退しました。一方、甲斐源氏も挙兵しました。「石橋山合戦」の敗退が甲斐へ伝えられると、甲斐源氏の一族のうち安田義定を筆頭とする、工藤景光・行光、市川行房ら伊豆の頼朝と近い氏族が頼朝救援に向かいました。平家では大庭景親の弟である俣野景久が駿河国目代・橘遠茂とともに甲斐へ軍勢を派遣しました。両勢は波志田山で衝突しました。安田義定の強襲から、俣野景久は敗走しました。

次に、牧氏事件です。源頼朝が死去した後、後継者の源頼家は若年の上に北条氏や梶原氏など頼朝が重用した御家人を遠ざけて、新たに自分の側近グループで政権を運営しようとしました。そこで、幕府内で将軍の独裁権力を抑制するために、有力御家人による合議制が整えられました。これは将軍が有名無実化し、御家人による権力争いが始まる契機となりました。頼朝の妻・北条政子の実父である北条時政は、有力御家人である梶原景時や源頼家の外戚である比企能員一族を滅ぼして、北条氏の地位を高めました。そして遂に頼家を廃して弟・源実朝を新将軍として擁立し、自らは執権となりました。そして、源頼家を後に殺害しました。頼朝死後の北条時政の謀略は、時政の後妻・牧の方が全て考え出したものと言われています。梶原氏、比企氏と有力御家人を滅ぼした北条時政の次の標的は、武蔵国に大勢力を誇る畠山重忠でした。畠山重忠は平清盛の家臣で、頼朝挙兵時には平家について三浦義明を討つなどし、頼朝を追い詰めました。後に頼朝に降伏して、「源義仲追討」や「一ノ谷の戦い」、「奥州藤原氏との戦い」、「比企氏追討」などで武功を挙げました。性格も剛直で人望もあり、時政にとって最も邪魔な存在となっていました。そんな中、重忠の子・畠山重保が時政と牧の方の娘婿である平賀朝雅と対立する事となりました。この対立を契機として、北条時政は畠山氏の討滅を計画しました。この時、時政の息子・北条義時は畠山重忠と友人関係にあり、あまりに強引な畠山氏排斥を唱える父に対して反感を抱きました。しかし、父の命令に逆らえず、武蔵二俣川で畠山重忠一族を討ち滅ぼしました(畠山重忠の乱)。時政と牧の方は、実朝を廃して平賀朝雅を新将軍として擁立しようとしました。しかし、時政と牧の方の強硬な策は一族の北条政子・北条義時らの反感を招きました。 政子と義時は協力して時政を執権から廃し、牧の方と共に強制的に出家させました。その後、二人は伊豆国に幽閉されました。また、平賀朝雅は事件後、即座に殺されました。そして、北条氏の第2代執権に北条義時が就任し、北条氏は幕府内における地位を確固たるものとしていくのです。

その次に、一乗谷城の戦い:朝倉氏が滅亡です。織田信長と対立した足利義昭は、信長包囲網を形成して対抗しました。浅井・朝倉氏はこの一員として信長と戦いました。しかし、武田信玄が死去し、盟主・足利義昭が京都から追放されました(槇島城の戦い)。信長は3万の大軍を率いて近江に攻め入りました。浅井長政は5000人の軍勢で小谷城に籠城し、朝倉義景は2万の大軍を率いて浅井長政の救援のため、余呉に本陣を敷きました。ところが、浅井方の武将・阿閉貞征らが織田軍に寝返りました。織田信長は朝倉方が守る大嶽砦と丁野砦を奇襲し、降伏させました。朝倉義景は撤退を決断しましたが、退却戦の混乱に織田軍の猛追を受けて皆殺しにされました。朝倉義景は疋田城への撤退を目標とし、経路である刀根坂に向かいましたが、信長自らが率いる織田軍の追討を受けました。余呉から刀根坂、敦賀にかけての撤退中、朝倉軍は織田軍に押され、3000人以上の死者を出しました。朝倉軍もある者は踏み止まり、ある者は反転して織田方を押し戻すなど果敢に奮闘しましたが、北庄城主・朝倉景行や朝倉道景といった一門衆を含め、山崎吉家、斎藤龍興、河合吉統など大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していた名のある武将が多数散っていきました(刀根坂の戦い)。こうして朝倉軍の近江遠征軍は、壊滅しました。朝倉義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還しました。信長は朝倉義景の元家臣・前波吉継を案内役にして越前に攻め入りました。一乗谷の市街地を襲撃制圧し、焼き払いました。1万人余もの人口で繁栄を誇った街は灰燼に帰しました。一乗谷突入の際の信長方で、最も際立った働きをしたのは若狭武田氏の旧家臣らでした。一乗谷を逃れ、朝倉景鏡に促されて大野郡へと移動していた朝倉義景は、六坊賢松寺をで主を裏切った朝倉景鏡の手勢に囲まれました。近習らが奮戦・討ち死にする中で朝倉義景は自刃しました。鳥居景近と高橋景業は、朝倉義景の介錯後に自刃しました。朝倉景鏡は義景の首を持参し、信長に参じました。義景の嫡男・愛王丸や義景の愛妾・小少将など、義景の極近親者は助命を条件に降伏して捕らえられました。しかし、織田軍は彼らを護送中に処刑しました。こうして朝倉氏は滅亡しました。

その次の次に、関ヶ原の戦い:浅井畷の戦いです。大谷吉継は越前敦賀に入り、北陸方面に対する軍事行動を起こしました。大谷吉継は前田利長軍に対して、「大谷吉継の別働隊が、金沢城を急襲するために海路を北上している」など、流言を流しました。さらに、西軍挙兵の時に捕らえていた中川光重(利長の妹婿)を脅迫して、前田利長宛に偽書を作成させ、それを前田利長のもとへ届けさせました。これら一連の大谷吉継の謀略から、前田利長は自分の留守中に居城の金沢城が海路から襲われる事を恐れました。そして、前田利長は軍勢を金沢に戻す事にしました。大聖寺城を落とした前田利長は、撤退途中に丹羽長重軍が前田軍を追撃する可能性がありました。前田利長はできるだけ隠密裏に撤退を行なおうとしましたが、2万5000人もの大軍勢の動きを隠密裏にするのは不可能でした。丹羽長重は前田軍の金沢撤退を知って、軍勢を率いて小松城から出撃しました。小松城の周囲には泥沼や深田が広がっていました。その中を、幾筋かの畷(縄手)が走っています。畷とは縄のように細い筋になっている道の事で、小松城の東方に浅井畷という畷がありました。丹羽長重はこの浅井畷で兵を率いて、前田軍を待ち伏せしました。そして、前田軍が浅井畷を通った時、待ち伏せしていた丹羽軍が襲いかかりました。前田軍は大被害を受けましたが、前田軍の武将・長連龍や山崎長徳らの活躍もあって丹羽軍を撃退し、何とか金沢に撤退する事ができました。この戦いは、北陸の「関ヶ原合戦」となりました。前田利長は家康の命令を受けて美濃関ヶ原に進出するため再び行動を起こすと、丹羽長重は前田利長に降伏を申し入れました。しかし、「関ヶ原本戦」には間に合いませんでした。更にこの時、前田利長の弟・前田利政は、居城である七尾城に籠ったまま動かず、東軍には加わりませんでした。その後、「関ヶ原本戦」で西軍が壊滅した事から、越前・加賀南部の諸大名は東軍に降伏を余儀なくされ、丹羽長重や前田利政をはじめ多くの諸大名は、家康によって改易される事になります。

そのまた次に、磐城戊辰戦争:第二次浪江の戦いです。長州藩1隊と岩国藩は高瀬川の上流へ、広島藩は先日構築した橋梁を使っての正面からの攻撃を指示、長州藩1隊と津藩は高瀬川の下流へと向かわせました。広島藩が浪江の列藩同盟軍をひきつけているうちに、上流、下流それぞれの場所で渡河の手段を見つけて、回り込んで浪江を包囲する作戦でした。まずは正面を突いた広島藩兵と中村藩兵が交戦を開始しましたが、強固な浪江陣地を前に広島藩は渡河地点から前に進めません。川を背に防戦しつつ、別働隊の到着を待ちました。東に進んだ長州藩隊と津藩は下流の渡河に成功しましたが、手間取って時間を費やしてしまいました。さらに東から浪江へ攻めこもうとしましたが、相馬中村藩の構築した幾世橋陣地が立ちはだかって、すぐに広島藩の援護に回れませんでした。これに対して、西の上流方面に進んだ長州藩と岩国藩の各隊は上流から大きく迂回、半弧を描いた機動は北側から浪江の背後をつきました。両藩の進軍先には相馬中村藩の砲台が築かれた高地がありましたが、長州・岩国両藩は相馬中村砲兵を撃破してこれを占拠しました。そのまま、高台を駆け下りて浪江を背後から攻撃しました。長州藩の突撃は高地から相馬中村藩の背後を突く決定的なものとなり、先日の「広野の戦い」のように、相馬中村藩の戦意を粉砕しました。長州、岩国両藩に分断され、一斉に東西へ分かれて逃走を開始する相馬中村藩でしたが、東に向かった藩兵は悲惨でした。浪江陣地の東には、ちょうど幾世橋陣地を攻略したばかりの新政府軍がいたため、相馬中村藩兵は田畑の中を散らばって逃げるしかありませんでした。西に逃走した藩兵は被害は受けませんでしたが、軍隊としての形を成さないまでに撃ち散らされました。この大敗は相馬中村藩の抗戦を完全に断念させた重大な敗北となり、相馬中村藩の組織的な抵抗はこの戦いで終了しました。仙台藩兵は相馬中村藩の中村城から、仙台藩境の駒ヶ嶺に引き上げました。米沢藩兵も自領へと帰り、「陸軍隊」、人見勝太郎の「遊撃隊」らも仙台へと退却しました。相馬中村藩主・相馬誠胤と父で後見役の相馬充胤は、新政府へ降伏の使者を出し、降伏しました。相馬中村藩の降伏を受けて四条総督ら新政府平潟方面軍は、中村城に入城しました。こうして、浜通りの諸藩は全て新政府軍に制圧されました。以後、中村城は新政府軍の対仙台拠点となります。

そのまた次の次に、戊辰戦争:松前藩正議隊のクーデターです。松前藩は、「奥羽列藩同盟」が結成されると家老・松前勘解由らが中心となって加盟し、蠣崎監三、山下雄城らと藩政を取り仕切りました。これに対し、「奥羽列藩同盟」に反対した藩士・鈴木織太郎、新田千里、三上超順らは「正議隊」を結成しました。1868年9月13日、代表者7人(鈴木織太郎、下国東七郎、蠣崎勇喜衛、蠣崎民部、杉村矢城、田崎東、松井屯)は、藩主・松前徳広に建白書を提出しました。15日に松前徳広は「正議隊」の要請を受け入れました。16日、主導権を握った「正議隊」はクーデターを決行しました。蠣崎監三を誅殺し、関佐守の家に踏込みましたが留守のため、弟・賜を連行して斬殺、関左守は観念して自刃しました。松前勘解由を切腹させ、出頭した山下雄城は投獄された後に自縊しました。「正議隊」はさらに「同盟派」を追及し、城下で7人(酒井湧味、因藤慎六郎、高橋熊雄、蛯子愿十郎、上田一弥、菅原悦三、中嶋半九郎)を斬首し、尾上徹三ら5人が切腹、田原藤左衞門、尾山徹三、福井佐吾六、小西弥蔵らに謹慎を命じました。さらに、下国弾正季定、松前右京広圃、松前伊豫広治、蠣崎勇喜紀広興、新井田隼人備寿、飛内策馬長和ら重臣の職を免じました。また、江戸詰家老・遠藤又左衞門、京都詰取次役・高橋敬三に討手を差し向けて斬殺しました。計24名が「正議隊」によって命を奪われました。しかし、松前藩の「恭順」統一による犠牲はこれに留まりませんでした。「箱館戦争」が終結すると、松前城下が旧幕府軍の占領下にあった時に協力を強いられた者たちを「戦犯」として徹底捜査しました。元江差奉行所町方頭取3人、元江差奉行所の役人13人、松前城下の商人8人、入牢後に死亡した者1人を含め、計25人を「戦犯」として処刑しました。

さらに次に、甘粕事件です。「関東大震災」後、東京や神奈川が混乱に陥り戒厳令が発せられていたなか、大杉栄は内縁の妻・伊藤野枝と、神奈川県橘樹郡鶴見町に住む大杉の妹・あやめを見舞い、その息子の橘宗一(6歳)をつれて東京に戻る途中、行方不明になりました。彼らが憲兵隊に連れ去られたという噂が広まり、時事新報や読売新聞などにより大杉ら3人の殺害が報じられました。日本を騒がせるアナキストであり恋愛スキャンダル(日蔭茶屋事件)でも世間に有名となった大杉栄・伊藤野枝の二人に加え、6歳の小児までもが殺されたとあって世間は騒然となりました。陸軍と対立する警視庁は捜査を要求しました。また、殺された大杉の甥・橘宗一がアメリカ合衆国の市民権を持っていたため、在日アメリカ大使館の抗議を受けて政府は狼狽しました。隠し通せなくなった軍は東京憲兵隊渋谷分隊長兼麹町分隊長であった甘粕正彦大尉を軍法会議に送致し、福田雅太郎戒厳司令官を更迭、憲兵司令官小泉六一少将らを停職としました。軍法会議予審で、事件の概要が明らかにされました。それによると甘粕正彦大尉らは、大震災の混乱に乗じてアナキストらが不穏な動きを起こして政府を転覆しようとすると憂慮し、アナキストの主要人物であった大杉と伊藤を殺害する事を決めました。9月16日、大杉ら3人が鶴見から帰る途中、自宅付近で甘粕大尉と東京憲兵隊本部付(特高課)の森慶次郎曹長が3人を拉致し、麹町憲兵分隊に連行しました。その夜の取り調べの最中、3人は絞殺されました。甘粕大尉に懲役10年、森曹長に同3年、その他殺害に関与したとされていた部下3名に無罪の判決を下して結審しました。アナキストらは大杉殺害の報復として、その後1年ほどの間に軍幹部の狙撃事件などを起こしましたが次々と逮捕されました。逮捕されたアナキストは殺されたり、転向して中華民国の満州地方に渡ったりしたため、日本のアナキスト運動は急速に衰退に向かいました。甘粕大尉は3年弱、千葉刑務所で刑に服しましたが、1926年の10月にひっそりと釈放され、その後陸軍の官費で夫婦でフランスに留学し、後に満州に渡って「満州事変」に関わる事になります。

さらに次の次に、アイオン台風が上陸です。関東地方は、前年に「カスリーン台風」に襲われており、「アイオン台風」がさらに追い打ちをかけた形となりました。「アイオン台風」は9月16日、房総半島に上陸しました。その後、台風は三陸沖を東進しました。このため、東海・関東・東北地方は激しい暴風雨となりました。岩手県では北上川やその支流が氾濫し、前年の「カスリーン台風」による被害を上回る災害となりました。死者512名、行方不明者326名、負傷者1956名、住家の全・半壊・流出18017戸、住家の床上・床下浸水120035戸、耕地被害133428ha、船舶被害435隻でした。この台風による北上川流域の水害により、北上川の治水計画は根本からの変更を迫られました。これが「北上川五大ダム」事業の発端となりました。この計画に基づき建設されたダムとして、石淵ダム(胆沢川)・田瀬ダム(猿ヶ石川)・湯田ダム(和賀川)・四十四田ダム(北上川)・御所ダム(雫石川)の「北上川五大ダム」を始め、鳴子ダム(江合川)・花山ダム(迫川)・栗駒ダム(三迫川)があります。また、一関市には「一関遊水池」が建設され、迫川には「南谷地遊水池」が建設されて洪水を一時的に貯留する遊水地が建設されました。さらに自然湖を洪水調節用調整池化する計画が立てられ、これにより「長沼ダム」が建設されました。

さらにまた次の次に、日本中央競馬会が発足です。吉田茂政権の下、国営競馬の存在が問題視された事をきっかけに「日本中央競馬会法」が制定され、農林大臣の諮問機関における議論を経て1954年9月16日に設立され、国営競馬から施行を引き継ぎました。初代理事長には「日本競馬の父」、「日本ダービーの生みの親」と呼ばれる安田伊左衛門が就任しました。現在では、日本競馬史上初のマイル重賞の名として「安田賞」、安田が死去した後は「安田記念」となり、春季の芝マイル部門チャンピオンホース決定戦となりました。

最後に、第2室戸台風が近畿地方に上陸です。第2室戸台風は9月16日、加速しながら北東に進み、9時過ぎに室戸岬西方に上陸しました。上陸時の中心気圧925hpa、室戸岬測候所での気圧や風の観測値は記録的な数字でした。その後もあまり衰えずに、さらに加速しながら13時過ぎに兵庫県尼崎市と西宮市の間に再上陸します。その後、日本海沿岸を北北東進して北海道のすぐ西を通過しましたが、その際は時速93キロメートルの高速でした。死者:194名、行方不明者:8名、負傷者:4972名、住家全壊:15238棟、住家半壊:46663棟、床上浸水:123103棟、床下浸水:261017棟でした。この台風18号は、発生位置や日本海北上後の経路は異なりますが、日本上陸前後の経路が「室戸台風」と酷似したため、「第2室戸台風」の固有名が付けられました。

今日の誕生日:袁世凱、竹久夢二、B.B.キング、古橋広之進、安藤正容(T−SQUARE)、東国原英夫(そのまんま東)、内野聖陽、宮川大輔(元チュパチャップス)、坪井慶介、徳井健太(平成ノブシコブシ)、多岐川華子

今日の記念日:オゾン層保護のための国際デー、ハイビジョンの日、競馬の日・日本中央競馬会発足記念日、保湿クリームの日

今日の「今日訓」:本日は、1987年に「モントリオール議定書」が採択された事を記念して「オゾン層保護のための国際デー」、ハイビジョンの画面の縦横比が9:16(16:9)である事から通商産業省(現経済産業省)が「ハイビジョンの日」と制定しました。他に郵政省(現総務省)とNHKが、ハイビジョンの走査線数1125本から11月25日を同名の記念日としています。1954年に「日本中央競馬会(JRA)」が発足した日なので「競馬の日」、「日本中央競馬会発足記念日」、「9(ク)リー(1)6(ム)」の語呂合わせで「保湿クリームの日」となりました。
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