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2017年09月12日18:58

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龍ノ口法難の世界史的意義

9月12日は宗祖御難会。日蓮大聖人、龍ノ口法難の日。

鎌倉幕府は大聖人様の法華経弘通を憎み、相州龍ノ口で秘密裏に処刑を図ったが、とうとうその首を切ることはできなかった。われわれ日蓮正宗信徒にとっては、御本仏の発迹顕本を銘記し、正法広布を誓う仏法上大切な日である。

龍ノ口法難はまた、今日の世間法において何かと喧しい「差別」と「表現の自由」の問題にも、数多くの示唆を与えてくれる。

「自分で変更可能な属性への弾圧は差別ではない」というのは本当か?宗教はまさに「自分で変更可能な属性」だ。龍ノ口とは、肥大した国家権力の暴走が社会にヘイトクライムを増幅させる末世の相の端緒なのである。

一方、「特定宗教への批判もヘイトスピーチに当たる」というのは本当か?ヘイトスピーチとヘイトクライムの峻別が必要だ。規制強化すべきはヘイトクライム、差別感情を動機とする犯罪行為であって、スピーチそれじたいを規制しようという試みは、必ず自由への不当な抑圧を産み出すことに帰着するのである。人類の自由と人権の発展の歴史を、「御成敗式目第十二条 悪口の罪」の時代に逆戻りさせては絶対にいけない。

わたしたちは、いわれなき中傷やデマ工作、脅迫のたぐいには断固抗議すると共に、冷静な批判は堂々と受けて立つ人間でありたいと思う。言論は自由だ。暴力・権力を一切排除した正々堂々たる公の議論を通じて、人類の宗教論争史にも早く決着をつけたいものだ。

布教の自由なき「信教の自由」は、本当に自由と言えるか。布教とは宗教心の表現そのものだ。表現の自由は、それが他人の人権を侵害しない程度において、最大限に尊重されなくてはならない。「自分の属性」、自分のアイデンティティをを自分自身で選び取りながら伸び伸びと表現していくこと、それが表現の自由の本質なのである。



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