mixiユーザー(id:48382454)

2017年09月12日00:01

68 view

9月12日の日記

今日の出来事:紀元前490年−マラトンの戦い:マラソンの起源、1629年−紫衣事件:江戸幕府が高位・高徳の僧への紫衣の勅許を停止、1864年−徳山七士事件、1868年−磐城戊辰戦争:第三次広野の戦い、1869年−本多政均暗殺、1943年−第二次世界大戦:バドリオ政権によって幽閉されていたベニート・ムッソリーニがナチス・ドイツに救出される(グラン・サッソ襲撃)

今日は、マラトンの戦い:マラソンの起源です。ギリシアのアッティカ半島東部のマラトンで、アテナイ・プラタイア連合軍がアケメネス朝ペルシア王国の遠征軍を迎え撃ち、連合軍が勝利を収めた戦いです。ダレイオス1世の命を受けたペルシア王国の司令官ダティスとアルタプレネスは、600隻の艦隊でキリキアを出立し、途上キクラデス諸島の都市国家ナクソス島、デロス島、エウボイア島のエレトリアを陥落させながらアテナイに迫りました。対するアテナイ兵約9000、プラタイア兵約600の連合軍は、マラトン南部の街道から侵入し、同地のヘラクレス神域に布陣して、ペルシア軍と対峙しました。ミルティアデスは、ポレマルコス・アルコン(軍事長官)に就任していたカリマコスを口説き落として、ペルシア軍との開戦に踏み切りました。早朝、ほぼ全軍を重装歩兵でかため、最右翼にカリマコスが率いる主力部隊を、最左翼にプラタイアの主力部隊を配置したギリシア軍は、ペルシア軍に総攻撃を仕掛けました。アテナイ・プラタイア連合軍は敵陣と同じ長さの戦線を確保したため、中央部はわずか数列の厚みしかなく最大の弱点でした。しかし、ペルシア軍の戦法を知っていたミルティアデスは、ペルシア軍に駆け足で突撃するという奇襲戦法を用いました。この行為をペルシア軍は自殺行為と侮りましたが、白兵戦に持ち込んだギリシア軍は、重装歩兵密集陣を駆使して長時間にわたって戦い抜きました。戦線を拡張したため、数列しか編成されなかったアリステイデスが率いる中央軍はペルシア歩兵に押し込まれましたが、両翼は十分な厚みを持っていたため逆にペルシア軍を敗走させました。両翼の軍は敗走する敵を追わず、そのまま中央部のペルシア軍を包囲して壊滅させ、撤退する敵軍を追撃しました。この時、カリマコスを含むギリシア軍の死者192人に対して、ペルシア軍の死者は6400人に達しました。また、ペルシア艦艇7隻が拿捕されました。勝利というエウアンゲリオン(良い知らせ)をアテナイの元老に伝えるために、フィディピディスという兵士が伝令に選ばれました。フィディピディスは完全武装のまま、マラトンから約40km離れたアテナイまでを駆け抜け、アテナイの郊外で「我勝てり」と告げた後に力尽きて息を引き取りました。この故事を元に、1896年にアテネで開かれた第1回オリンピックに、マラトンからアテネ・パナシナイコ競技場までの競走が加えられました。これがマラソン競走の始まりとなりました。当初は、約40kmで行われていました。競技距離が統一されたのは、第8回パリオリンピック以後で、42.195km(26マイル385ヤード)とされました。この距離は、第4回ロンドンオリンピック時の走行距離(市街地42km+競技場の200mトラック1周弱)をそのまま採用したものです。

次に、徳山七士事件です。徳山藩は長州藩の支藩の一つです。本藩同様に政争が繰り返され、保守派の富山源次郎が政権を掌握しました。「禁門の変」で、長州藩が敗れて朝敵になると改革派の弾圧を始めました。この日、「徳山七士」と言われる七人を殺害または捕縛しました。以下が「徳山七士」です。
江村彦之進:保守派によって職を奪われた上で禁固に処せられ、藩主の命と偽られ、東関門付近に連れ出されて暗殺される。
兒玉次郎彦:河田佳蔵らが保守派の富山源次郎の暗殺に失敗すると、その一味と目されて保守派によって自宅で暗殺される。
河田佳蔵:幕府に恭順の意を示した保守派の富山源次郎の居宅を襲撃するが、富山は一撃を浴びたものの虎口を脱した。その後、捕えられ浜崎の獄舎に入れられて処刑される。
井上唯一:「四国連合艦隊下関砲撃事件」の際には、長州藩主・毛利元徳に従って出陣、「七卿落ち」の時にはその護衛役を務めて山口に赴き、「奇兵隊」に入隊する。「禁門の変」時の徳山藩の内訌の際には、尊攘派(正義派)の一員として活躍したため、保守派(俗論派)に捕らえられ、浜崎の獄舎に入れられて処刑される。
本城清:藩校・興譲館の教授を務め、尊王攘夷を唱える。保守派は藩校の教授を免職させ、士族の籍を除かれて獄に繋がれる。「死一等を減じ流罪に処す」と偽り、新宮の浜に連れ出されて絞殺された。
浅見安之丞:学館の訓導役でしたが、保守派が政権を握ると捕らえられて獄に繋がれる。保守派に「死一等を減じ流罪に処す」と新宮の浜に連れ出され、絞殺された。
信田作太夫:保守派が政権を握ると捕らえられ、獄に繋がれる。保守派に「死一等を減じ流罪に処す」と偽り、新宮の浜に連れ出され、絞殺された。
3人(本城清、浅見安之丞、信田作太夫)の死は、牢屋における病死として徳山藩主や萩藩に報告されました。

その次に、磐城戊辰戦争:第三次広野の戦いです。再び列藩同盟軍が襲撃を仕掛けました。広島、鳥取藩兵を浅見川に追い落とそうとする猛攻で、両藩とも陣地に籠もってひたすら救援を待ちました。正午、長州藩2中隊と岩国藩1中隊が到着すると猛攻を受けていた陣地から飛び出し、列藩同盟軍陣地を強襲しました。鳥取藩、広島藩兵も時の声を上げながらそれに続くと、勝ちつつあった列藩同盟軍は逆襲に怯み、形成を逆転されて逃走しました。列藩同盟軍諸兵の動揺は下北迫の自軍陣地に到達しても収まらず、なおも北へと走らせました。列藩同盟軍の部隊長らは、踏みとどまらせて新政府軍を迎え撃つように命じますが、長州藩の機動力を伴った追撃は藩兵をより恐慌へと駆り立てました。そのため、義務感から踏みとどまって防戦を行おうとした仙台藩参謀・中村権十郎が戦死し、海岸線で奮闘した伊達藤五郎は負傷して退却、相馬中村藩の「鬼将監」こと、相馬将監胤眞も重傷を負って死亡しました。怪我人の増えた鳥取藩兵と広島藩兵は広野に戻りました。この戦いでの死者は新政府軍が12人、列藩同盟軍は13人ですが、戦意を喪失した列藩同盟軍が多くの拠点を奪われる事になりました。

その次の次に、本多政均暗殺です。本多政均は、幕末の加賀藩家老です。本多家は、本多正信の次男・政重の子孫です。1856年に兄・政通が夭折したため家督を継ぎ、1860年に城代家老に任じられました。藩主・前田斉泰に寵愛され、西洋軍制の導入などの改革を積極的に推し進めました。1863年の「八月十八日の政変」の際は、京都御所・中立売門を警護しました。1864年に「禁門の変」が起こると、尊攘派と親しかった前田斉泰の世子・慶寧の謹慎処分をはじめ、藩内における尊攘派の処罰「元治の獄」を担当しました。1866年からは、薩摩藩などとの交渉役を務めました。しかし、「元治の獄」での尊攘派に対する厳し過ぎる処分が、彼らの恨みを買う事になりました。1869年、藩士・岡野悌五郎のもとへ、山辺沖太郎、井口義平、菅野輔吉、土屋茂功、多賀賢三郎、松原乙七郎、岡山茂が集まって本多政均を暗殺する謀議を行ないました。籤引きにて、山辺沖太郎と井口義平が暗殺を実行する事に決定しました。9月10日、多賀賢三郎の家に集まり、斬奸趣意書を読み上げました。翌9月11日は本多政均が登城しなかったため、9月12日に決行となりました。山辺沖太郎と井口義平は、金沢城の二の丸御殿で本多政均を刺殺しました。享年32でした。翌日、多賀賢三郎、菅野輔吉、多賀賢三郎、松原乙七郎、岡山茂が捕吏に捕えられ、その前に土屋茂功は自刃しました。山辺沖太郎と井口義平は切腹となりましたが、他は禁固や閉門に処せられました。この結果を不満とした本多政均の家臣らによって、「明治忠臣蔵」と呼ばれる仇討が行なわれる事になります。

最後に、第二次世界大戦:グラン・サッソ襲撃です。グラン・サッソ襲撃は、ドイツ軍によって実施されたベニート・ムッソリーニの救出作戦です。イタリア王国の首相であったムッソリーニは、大評議会が解任の動議を可決した事により、首相の座を追われて逮捕されました。ナチス・ドイツは、アドルフ・ヒトラーがファシズムの盟友である彼を救出するべく、ドイツ空軍のクルト・シュトゥデントに「ムッソリーニ救出作戦」の立案及び決行を、武装親衛隊のオットー・スコルツェニーには救出後の保護を指令しました。ムッソリーニの幽閉されているホテルはグラン・サッソの山頂に建っており、付近に輸送機が着陸できる余裕がなく、パラシュート降下では狭い範囲に集中させての降下が困難でした。空軍に所属する降下猟兵を主力として救出後のムッソリーニを保護するための随行者である、スコルツェニーを始めとする少数の武装親衛隊員を加えて編成したコマンド部隊をグライダーで降下させ、ムッソリーニを救出した後は世界初の量産ヘリコプターである「Fa223」でムッソリーニをドイツ軍の支配地域まで輸送し、グライダーで降下した部隊は陸路でドイツ軍の支配地域まで引き揚げるというものになりました。グラン・サッソへの移動中に「Fa223」が壊れてしまったため、「Fi156」を代わりに飛ばす事にしました。ドイツ軍のコマンド部隊は12機の「DFS230」に分乗して降下し、うち8機が着陸に成功、ドイツ空軍のハラルト・モルス少佐が率いる降下猟兵が、一発の銃弾も発砲する事なくムッソリーニの身柄を無傷で確保しました。降下猟兵がムッソリーニの身柄を確保する頃には「Fi156」がホテルのすぐそばに着陸しており、救出後の保護のために現地へ随行していた武装親衛隊のスコルツェニーは、降下猟兵からムッソリーニの身柄の引き渡しを受けるとムッソリーニとともに「Fi156」に乗り込みました。「Fi156」は重量オーバーながらも75m程度の滑走で無事に離陸し、グラン・サッソを脱出しました。また、グライダーで降下した部隊はロープウェイで下山し、予定どおり陸路でドイツ軍の支配地域まで引き揚げました。この作戦は、困難な条件を克服して実施された要人救出の成功事例として名高いものとなり、その劇的な経緯から戦後に小説、演劇、映画等の題材になりました。

今日の誕生日:リチャード・ジョーダン・ガトリング、内海桂子(内海桂子・好江)、大野克夫、藤田弓子、あがた森魚、紅萬子、篠塚満由美、佐藤善雄(元 ラッツ&スター)、戸田恵子、ロード・ウォリアー・ホーク(ロード・ウォリアーズ)、岡本夏生、田中美奈子、木田優夫、丸山茂樹、三船美佳、長友佑都、田中美久(HKT48)、セイラ・マス

今日の記念日:宇宙の日、水路記念日、鳥取県民の日

今日の「今日訓」:本日は、「鳥取県民の日」です。誉津別王子が成人しても言葉が喋れない事を天皇が憂いていた時、大空を白鳥が飛んでいるのを見つけ「是何物ぞ」と発しました。天皇は喜んで、その鳥の捕獲を命じました。天湯河板挙が鳥を追いつづけて各地を巡り、ついに出雲の地で捕獲に成功しました。この功績から「鳥取造」の称号を拝命しました。これが、「鳥取」の語源となりました。明治維新の廃藩置県により、旧因幡国の8郡(岩井郡・邑美郡・法美郡・八上郡・八東郡・智頭郡・高草郡・気多郡)、旧伯耆国の6郡(河村郡・久米郡・八橋郡・汗入郡・会見郡・日野郡)、旧播磨国の3郡(神東郡・神西郡・印南郡)の一部が鳥取県となりました。その後、旧播磨国の領域が姫路県に編入され、島根県より旧隠岐国が編入されました。しかし、1876年に鳥取県が島根県に併合されました。そして、1881年の9月12日に島根県のうち、旧因幡国の8郡と旧伯耆国の6郡が鳥取県として分立・再置されました。こうして、現在の鳥取県が誕生しました。1871年に「兵部省海軍部水路局」が設置された事で「水路記念日」、1992年に、毛利衛がスペースシャトルで宇宙へ飛び立った日を記念して「宇宙の日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する