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2017年09月06日00:08

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9月6日の日記

今日の出来事:1335年−南北朝動乱:中先代の乱、1522年−マゼラン一行の5隻の船のうち唯一生き残ったビクトリア号がスペインのサンルカール・デ・バラメーダに帰還、人類史上初の世界一周を達成、1530年−田手畷の戦い、1759年−竹鉄砲事件、1877年−西南戦争:城山包囲、1901年−マッキンリー大統領暗殺事件

今日は、南北朝動乱:中先代の乱です。北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児・北条時行が、信濃の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府復興のため挙兵した反乱です。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配した事から「中先代の乱」と呼ばれています。鎌倉時代末期に後醍醐天皇が討幕運動を起こすと、足利尊氏など幕府の有力御家人が呼応しました。1333年、鎌倉は新田義貞らの攻撃で陥落し、北条氏は滅亡しました。この際に北条時行は得宗被官・諏訪盛高に連れられ、父・北条高時の弟・北条泰家と共に鎌倉を脱出、北条泰家は奥州に遁れました。鎌倉幕府が滅亡した後、天皇親政である「建武の新政」が開始されました。鎌倉には、後醍醐天皇の皇子の成良親王を長とし、足利尊氏の弟の足利直義が執権としてこれを補佐する形の「鎌倉将軍府」が設置されました。しかし、建武政権は武家の支持を得られず、北条一族の残党などは各地で蜂起を繰り返していました。1335年には、鎌倉時代に関東申次を務め、北条氏と繋がりがあった公家の西園寺公宗や日野家らが京都に潜伏していた北条高時の弟・北条泰家(時興)を匿い、持明院統の後伏見法皇を擁立して政権転覆を企てた陰謀が発覚しました。西園寺公宗らは後醍醐天皇の暗殺に失敗して誅殺されましたが、北条泰家は逃れて、各地の北条残党に挙兵を呼びかけました。北条氏の旧領である信濃に潜伏していた北条時行は、旧譜代の諏訪頼重、諏訪時継や滋野氏らに擁立されて挙兵しました。北条時行の信濃挙兵に応じて、北陸では北条一族の名越時兼が挙兵しました。北条時行勢の保科氏や四ノ宮氏らは「青沼合戦」で信濃守護・小笠原貞宗を襲撃し、千曲川沿いを転戦しました。この間に諏訪氏、滋野氏らは信濃国衙を焼き討ち襲撃して、国司(清原真人某)を自害させたあと、武蔵国へ入って鎌倉へ進軍しました。北条時行軍は、8月11日に女影原(埼玉県日高市)で渋川義季や岩松経家らが率いる鎌倉将軍府の軍勢を撃破しました。渋川義季と岩松経家は自刃しました。そのまま、小手指原(埼玉県所沢市)で今川範満の軍を破り、今川範満を討ち取りました。武蔵府中で救援に駆けつけた下野国守護・小山秀朝の軍を打ち破り、敗死させました。さらに勝ち進み、鎌倉から出陣して北条時行軍を迎撃した足利尊氏の弟・足利直義を町田村(現、町田市)の「井出の沢の合戦」で破りました。足利直義は足利尊氏の子の幼い足利義詮や、後醍醐天皇の皇子・成良親王らを連れて鎌倉を逃れました。8月13日、鎌倉には建武政権から失脚した後醍醐天皇の皇子・護良親王が幽閉されていましたが、足利直義は鎌倉を落ちる際に密かに家臣・淵辺義博に護良親王を殺害させました。8月14日、「鶴見(神奈川県横浜市鶴見区)の合戦」で鎌倉軍は最後の抵抗を試みましたが、佐竹義直(佐竹貞義の子)らが戦死しました。北条時行は8月15日に鎌倉に入ると、逃げる足利直義を駿河国・手越河原で撃破しました。こうして、鎌倉を一時支配しました。足利直義は三河国に駐在し、乱の報告を京都に伝えると同時に成良親王を返還しました。北条時行勢の侵攻を知らされた建武政権では、足利尊氏が後醍醐天皇に対して北条時行討伐の許可と同時に、武家政権の設立に必要となる総追捕使と征夷大将軍の役職を要請しましたが、後醍醐天皇は要請を拒否しました。足利尊氏は勅状を得ないまま出陣しましたが、後醍醐天皇は足利尊氏に追って「征東将軍」の号を与えました。足利尊氏は足利直義と合流し、8月27日に遠江国橋本、8月30日に「小夜の中山の戦い」で、足利方の今川頼国が北条方の名越邦時を討ち取りました。さらに、9月1日に駿河国の清見関および国衙、4日に箱根、5日に相模川で足利方の今川頼国・頼周兄弟が戦死するなどの激戦が各地で行われました。北条時行勢は次第に劣勢となり、戦線は徐々に後退しました。6日、北条時行は鎌倉を保つこと20日程度で逃亡しました。相模国・辻堂では、木曾家村が率いる追討軍に大敗した諏訪頼重が息子・時継ら43人と勝長寿院で自刃しました。諏訪氏は、諏訪時継の子・頼継が大祝職を継承しました。諏訪時継は南朝に与しますが敗れて没落し、諏訪氏の大祝職と惣領は頼継の弟・信継が引き継ぎました。信継の子・直頼が北朝に降って、その嫡子・信有の系統が戦国時代の頼満、頼重に至る事になります。足利尊氏は鎌倉で、乱の鎮圧に付き従った将士に勝手に恩賞を分配したり、建武政権の上洛命令を無視したりするなど、建武政権から離反します。北条時行は吉野の後醍醐天皇と接触し、朝敵恩赦の綸旨を受けて南朝方に属します。北条時行は北畠顕家の軍に属し、北畠顕家の2度目の西上の時に「青野原の戦い」などで足利方と戦います。「観応の擾乱」の直後の1352年に、新田義貞の遺児、新田義宗・義興と共に上野国で挙兵しますが、武蔵国で足利尊氏とその子・足利基氏に敗れて捕らえられ、翌年に鎌倉龍ノ口で処刑されました。北条時行の死により、北条得宗家は滅亡しました。

次に、マゼラン一行が人類史上初の世界一周を達成です。マゼランはマクタン島の王の一人ズラに「マゼランの要求に従う気はあるが、もう一人の王ラプ=ラプが従わないので困っている。小艇に兵を満載して救援に来てほしい」と伝えられました。これを聞いたマゼランは、ラプ=ラプ王を従わせようと3隻の小艇に60名の兵を乗せてマクタン島に乗り込みましたが、ラプ=ラプ王は既にこれを察知していました。60名の内11名を小艇の警護に残して上陸したマゼランの49人に対して、1500人の軍勢を配置していました。しかし、マゼランは圧倒的に多数の敵を前にして、部下に「諸君、われらの敵であるこれらの住民たちの数に恐れをなしてはならない。神が我らを助け給うであろうから。諸君、思い出すがよい、あのエルナン・コルテス隊長がユカタン地方で、200人のエスパニャ人でもって、しばしば20万、30万の住民たちを打ち破ったということを我々が耳にしたのはつい最近のことではないか」と演説し、寡兵にも関わらず戦闘に突入しました。しかし、30倍の数の敵に対し、マゼランの兵はやがて敗走しました。マゼランの周りにはピガフェッタやエンリケを含め6〜8人ほどが踏みとどまって戦うだけになりました。多勢のラプ=ラプ王の兵の竹槍は、マゼラン達の甲冑に通じず、戦いは1時間に及びましたが、ラプ=ラプ勢は防具をつけていない足に攻撃を集中し始め、遂にマゼランは戦死しました。マゼランの死後、艦隊はマゼランの親族に当たるものを後継の指揮官にしていましたが、後継の指揮官を含め艦隊幹部多数がセブ王に殺されました。大幅に人員が減り、3隻の運行が難しくなった艦隊はコンセプシオン号を破棄、残るトリニダード号とビクトリア号は迷走しながらも1521年11月8日、香料諸島にたどり着きました。香料諸島では王の厚遇を得て大量の丁子(クローブ)を積むが、丁子を積みすぎてトリニダード号は浸水しました。艦隊は修理に取り掛かったトリニダード号を香料諸島に残し、フアン・セバスティアン・エルカーノを船長としてビクトリア号1隻60人の人数で香料諸島を出発しました。ポルトガルの勢力圏内で途中の港に立ち寄れないスペイン船ビクトリア号は、壊血病と栄養失調で多くの死者を出しながらも1522年9月6日スペインに帰国しました。スペイン帰国時の乗組員は21名、内3人は途中で乗せたインディオなので、出発時約270人の乗組員の内、世界周航を達成できたのはエルカーノや艦隊の記録を書いたピガフェッタら18人だけでした。ほぼ3年にわたる航海でした。尚、ピガフェッタは出航以来、毎日欠かさず日記を付けていましたが、ビクトリア号が世界一周達成を目前にアフリカの西にあるヴェルデ岬諸島に立ち寄ったとき、ピガフェッタの日記では水曜日であるはずがヴェルデ岬諸島では木曜日であることを知り大変驚きました。地球を西回りに1周すれば日付が1日遅れるのは当たり前であるが、人類初の世界一周の記録者ピガフェッタは地球一周による日付のずれを実感した最初の人物になったのです。マゼランの功績は、大洋としての太平洋を発見し、地球の大きさを直接に認識し、世界に指し示したことです。

その次に、田手畷の戦いです。田手畷の戦いは、1530年に北九州の覇権を巡って周防・大内氏と肥前・少弐氏との間で起きた戦いです。大内氏と少弐氏は、室町時代を通じて北九州(大宰府)の覇権を争う宿敵同士でした。1497年に大内義興が少弐政資を「晴気城の戦い」で滅ぼし、鎮西の覇者であった少弐氏を肥前の一地方勢力に転落させました。少弐政資の子・資元は横岳資貞の下へ落ち延びました。勢福寺城で旧臣や大友氏の支援を受けた少弐資元は、少弐氏の再興を図りました。大内義興の子・義隆は、少弐資元に止めを刺すために筑前国守護代・杉興連に肥前・勢福寺城を攻撃させました。これを見た筑紫尚門、朝日頼実、横岳資貞、千葉胤勝らが大内方に寝返り、1万の軍勢で大内軍は進軍しました。少弐資元は、家臣・龍造寺家兼や馬場頼周、小田政光、江上元種ら3000の軍勢を出陣させて田手畷で迎え撃ちました。龍造寺家兼や馬場頼周が奮戦しましたが、兵力で劣勢の少弐勢は敗色が濃厚でした。しかし、ここで龍造寺家兼の家臣・鍋島清久、清房父子や石井忠清らが率いる石井党の活躍により形成は逆転しました。彼らは赤熊の面を被った奇襲部隊「赤熊奇襲隊」を組織して、遠征してきた杉興連を敗走させたのでした。この戦いで、大内方は横岳資貞、筑紫尚門などが討死しました。これを契機に、石井党と鍋島氏は龍造寺氏の重臣に列せられる事となります。この後、佐賀平野南部の有力領主らを味方につけて戦勝に貢献した龍造寺氏が、少弐家中での発言権を強めて戦国大名化していく事となります。この勝利に勢い付いた少弐氏は、逆に大宰府に侵攻するなど一時勢力を回復させましたが、大内家の周防国守護代・陶興房が九州に乗り込んでくると再び劣勢になりました。さらに大内義隆が自身で大軍を率いて攻勢をかけて来ると、龍造寺家兼にも見放されました。1535年、「梶峰城の戦い」で少弐資元は自刃して果てたため、少弐氏は一時滅亡します。

その次の次に、竹鉄砲事件です。竹鉄砲事件は、肥後・人吉藩の第8代藩主・相良頼央が鉄砲により暗殺された事件です。別名「御手判銀事件」とも呼ばれています。元々、相良家の記録には無い、秘匿されていた事件でした。しかし、渋谷季五郎が相良家近世文書を整理中に偶然発見して判明しました。発端は、1755年に第7代藩主・相良頼峯の時に領内を襲った大水害です。藩は当時すでに財政が逼迫しており、この大水害によって藩士の生活は壊滅的な打撃を受けました。翌1756年、藩士救済策として家老・万江長右衛門らの大衆議派が、希望者に対して御手判銀の貸し付けの触れを出しました。しかし、この貸付は借り高に応じて、家禄を渡す分を差し引くというものでした。100石取り以上の上給者は、その返済方式では実質的に知行の削減となりました。このため、藩士が一層貧困に喘ぐとして異を唱えて門葉方に訴え出ました。上給者で借り受けを請う者は無く、万江長右衛門ら一同は謹慎に及びました。一方、相良頼母(後の頼央)ら門葉は、この一件を江戸の相良頼峯へ報告し、万江長右衛門を切腹にし、他の者を逼塞とするように密書を送りました。しかし、万江長右衛門らは処分されず、謹慎を解かれました。1757年、藩主・相良頼峯は、門葉の相良頼母を仮養子にしようとしました。相良頼母は門葉の中心的人物であったため、家老・万江長右衛門らは反対し、連判状を提出しました。しかし、相良頼峯は、強硬な反対を押し切って相良頼母を仮養子として帰国しました。その後、相良頼峯を毒殺して相良頼母を擁立する企てがあるという遺書を残して、藩医・右田立哲が自殺する事件が起こりました。相良頼峯は吟味の上、小衆議派を処罰しました。1758年、相良頼峯は江戸参府の途上で発病し、江戸到着後に死去しました。これにより、相良頼母が出府し、第8代藩主・相良頼央となりました。翌1759年に帰国した相良頼央は、その2ヶ月後に急死しました。相良家の記録では、体調を崩して薩摩瀬の別邸で療養していましたが、病状が悪化して死亡したとされています。しかし、言い伝えによれば、薩摩瀬の別邸に滞在中に鉄砲で狙撃されて9月6日に死亡したと言います。人吉藩は、銃声を子供の竹鉄砲(爆竹)であると誤魔化し、調査を求める訴えを取り上げませんでした。大衆議派と小衆議派が対立する中、小衆議派の中心人物であった藩主の抹殺を謀ったものと言われています。また、これにより藩主・相良家の血統は断絶し、以後の約10年間、他家から晃長、頼完、福将、長寛の4人を相次いで継嗣に迎え入れる不安定な家督相続を続け、内密の藩主すり替え(頼完は晃長が全快して改名した事にした)も行って、何とかお家断絶の危機を切り抜けました。

そのまた次に、西南戦争:城山包囲です。9月1日、薩摩軍は鹿児島入りすると、辺見十郎太は私学校を守っていた200名の政府軍を排除すると、私学校を占領しました。突囲軍の主力は城山を中心に布陣しました。この時、鹿児島の情勢は大きく西郷軍に傾き、住民も協力していた事から、西郷軍は鹿児島市街をほぼ制圧し、政府軍は米倉の本営を守るだけとなちました。しかし、9月3日には政府軍が形勢を逆転し、城山周辺の薩摩軍前方部隊を駆逐しました。反撃に出た西郷軍は9月4日、貴島清が率いる決死隊が米倉を急襲しましたが、急遽駆けつけた三好重臣少将が率いる第2旅団により、決死隊は一掃されました。こうして政府軍は9月6日、城山包囲態勢を完成させました。この時、薩摩軍は350余名となっていました。

最後に、マッキンリー大統領暗殺事件です。ニューヨーク州バッファローのテンプル・オブ・ミュージックで、発生した事件です。ウィリアム・マッキンリー大統領はバッファローで開催されていたパン・アメリカン博覧会に出席しており、無政府主義者のレオン・チョルゴッシュに2度銃撃されました。マッキンリーは当初、傷から回復しているように見えましたが、狙撃から6日後に容態が急変し、死亡しました。副大統領のセオドア・ルーズベルトが大統領職を継ぎました。マッキンリーは暗殺されたアメリカ合衆国大統領4人のうちの3人目です。暗殺された大統領は、1865年のエイブラハム・リンカーン、1881年のジェイムズ・ガーフィールド、後に、1963年のジョン・F・ケネディがいます。マッキンリーの暗殺後、連邦議会はアメリカ合衆国シークレットサービスにアメリカ合衆国大統領身辺の護衛を公式に課する事になりました。

今日の誕生日:星新一、西村京太郎、小林昭二、大川茂(元ハイ・ファイ・セット)、永井豪、市毛良枝、大江千里、黒岩彰、ポール・ワークター=サヴォイ(a−ha)、パンツェッタ・ジローラモ、ROLLY(元ローリー寺西・すかんち)、堀池巧、小村徳男、若林志穂、谷亮子、氷川きよし、澤穂希、阿部勇樹、山内久留実(元美少女クラブ31)、市川知宏、本郷理華、悠仁親王

今日の記念日:妹の日、ホシヅルの日、黒の日、鹿児島黒牛・黒豚の日、まがたまの日、クロレラの日、クレームの日、黒酢の日、黒豆の日、キョロちゃんの日(森永チョコボールの日)、黒あめの日、シェリーの日、9696(クログロ)の日、松崎しげるの日、クロレッツの日、クルージングの日、浅田飴の日、カラスの日

今日の「今日訓」:本日は、「妹の日」です。毎年「日本妹大賞」が発表・授賞され、これまでに有森裕子、岩崎恭子、きんさんぎんさんの妹である蟹江ぎんなどが受賞しています。SF作家、星新一の誕生日です。星新一を偲ぶ日として「ホシヅルの日」、数字の6と9の形が「まがたま」の形と似ている事から「まがたまの日」、シェリーをグラスに注ぐ時に使用する道具のベネンシアの形が数字の「9」に似ていて、注ぐ時は数字の「6」のように見える事から「シェリーの日」、「く(9)ろ(6)」の語呂合わせで、「黒の日」、「鹿児島黒牛・黒豚の日」、「黒酢の日」、「黒豆の日」、「黒あめの日」、「ク(9)ロ(6)レラ」の語呂合わせで「クロレラの日」、「ク(9)レーム(6)」の語呂合わせで「クレームの日」、「キョ(9)ロ(6)チャン」の語呂合わせで「キョロちゃんの日(森永チョコボールの日)」、「ク(9)ロ(6)グ(9)ロ(6)」の語呂合わせで「9696(クログロ)の日」、「ク(9)ロ(6)」の語呂合わせで「松崎しげるの日」、「ク(9)ロ(6)レッツ」の語呂合わせで「クロレッツの日」、「ク(9)ル(6)ージング」の語呂合わせで「クルージングの日」、「クー(9)ル(6)」の語呂合わせで「浅田飴の日」、「ク(9)ロー(6)」の語呂合わせで「カラスの日」となりました。
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