mixiユーザー(id:48382454)

2017年09月05日00:33

326 view

9月5日の日記

今日の出来事:1864年−四国連合艦隊下関砲撃事件、1866年−第二次長州征伐(四境戦争):小倉口戦い(赤坂口の戦い)、1905年−ポーツマス条約が締結、日露戦争終結(日比谷焼打事件)、1945年−ソ連対日参戦:ソ連軍が北方領土(国後島、択捉島、色丹島、歯舞群島)を占領、北方領土問題の始まり、1972年−ミュンヘンオリンピック事件、1977年−王貞治に初の国民栄誉賞

今日は、四国連合艦隊下関砲撃事件です。攘夷を決行した長州藩は「馬関戦争」で外国船を攻撃しました。薩摩藩でも「生麦事件」から「薩英戦争」となりました。「八月十八日の政変」で長州藩が失脚し、「池田屋事件」で攘夷派志士多数が殺害捕縛されました。追い詰められた長州藩は「禁門の変」を起こしますが、敗れて朝敵となりました。日本人に攘夷の不可能を思い知らす為「文明国」の武力を示す必要を感じた駐日公使・オールコックは、長州藩への懲罰攻撃を決意しました。オールコックのこの方針にフランス、オランダ、アメリカも同意し、四国連合による武力行使が決定しました。イギリスに留学していた長州藩士・伊藤博文と井上馨は四国連合による下関攻撃が近い事を知らされ、戦争を止めさせるべく急ぎ帰国の途につきました。イギリスの国力と機械技術が日本より遙かに優れた事を現地で知った二人は、戦争をしても絶対に勝てない事を実感していました。クーパー中将(英)を総司令官とする四国連合艦隊は横浜を出港しました。艦隊は17隻で、英軍艦9隻、仏軍艦3隻、蘭軍艦4隻、米軍艦1隻からなり、総員約5000の兵力でした。また横浜には英軍艦1隻、米軍艦1隻と香港から移駐してきた陸軍分遣隊1350人が待機していました。下関を守る長州藩の兵力は奇兵隊(総管:赤根武人)など2000人、砲約120門であり、「禁門の変」で主力部隊を京都へ派遣していた事もあって弱体でした。大砲の数が足りず、木製の砲を作ってダミーとしていました。四国連合艦隊は長府城山から前田・壇ノ浦にかけての長州砲台群に猛砲撃を開始しました。長州藩兵も応戦しますが火力の差が圧倒的であり、砲台は次々に粉砕、沈黙させられました。艦隊は前田浜で砲撃支援の下で陸戦隊を降ろし、砲台を占拠して砲を破壊しました。壇ノ浦砲台を守備していた奇兵隊軍監・山県有朋は至近に投錨していた敵艦に砲撃して一時混乱に陥れました。だが、艦隊はすぐに態勢を立て直し、砲撃をしかけ陸戦隊を降ろし、砲台を占拠して砲を破壊するとともに、一部は下関市街を目指して内陸部へ進軍して長州藩兵と交戦しました。艦隊は彦島の砲台群を集中攻撃し、陸戦隊を上陸させ砲60門を鹵獲しました。下関の長州藩の砲台はことごとく破壊されました。陸戦でも長州藩兵は旧式銃や槍弓矢しか持たず、新式のライフル銃を持つ連合軍を相手に敗退しました。長州藩死者18人・負傷者29人、連合軍は死者12人・負傷者50人でした。なお、英軍にはカメラマンのフェリーチェ・ベアトが従軍し、戦闘の様子を撮影しました。ベアトにとっては、「クリミア戦争」、「インド大反乱」、「アロー戦争」に続く4度目の従軍撮影でした。戦闘で惨敗を喫した長州藩は講和使節の使者に高杉晋作を任じました。この時、高杉は脱藩の罪で監禁されていましたが、家老宍戸備前の養子・宍戸刑部を名乗り、四国連合艦隊旗艦のユーライアラス号に乗り込んでクーパー司令官との談判に臨みました。この時、通訳をしたのが伊藤博文です。イギリス側通訳のアーネスト・サトウは高杉晋作の様子を非常に傲然としていたと述べています。下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立しました。ただし、賠償金は長州藩ではなく幕府に請求する事になりました。巨額すぎて長州藩では支払い不能な事と、今回の外国船への攻撃は幕府が朝廷に約束し、諸藩に通達した命令に従ったという名目の為でした。この談判の際に四国連合側のすべての要求を受け入れた高杉晋作が、彦島の租借だけは断固として拒否しました。高杉晋作の努力によって彦島が香港のような外国の領土になる事は防がれました。この時、「禁門の変」の勝利により幕府は長州藩の攻撃準備をしていました。「第一次長州征伐」がはじまります。

次に、第二次長州征伐(四境戦争):小倉口戦い(赤坂口の戦い)です。長州藩兵は小倉へ三度目の上陸を果たしました。これに対し小倉藩兵は大里に布陣しますが、もはや小倉藩兵に長州藩兵の攻撃に抵抗する気力は無く、長州藩兵の攻撃の前にあえなく敗退しました。この後、長州藩兵は軍を分けて海岸線沿いに福原和勝が率いる報国隊が進み、山間部を山県有朋が率いる奇兵隊が進み、そして時山直八が迂回部隊を率いて一気に三方面から小倉平野への突破を試みて進撃を開始しました。しかし、この小倉平野への最後の関門の赤坂口には熊本藩兵が布陣しており、延命寺山に本陣を置き、弾正山に主力を置くなどして長州藩兵を迎え撃つ体制を整えていました。この赤坂は小倉平野に出るまでの最後の要所で、海岸線ぎりぎりまで弾正山が張り出して門司から小倉まで続く街道を遮断していました。この要地を突破しない限り小倉平野には出れないと言う、正に小倉口の戦いの天王山でした。まず最初は海岸線を進軍してきた報国隊が砲隊を先頭にして攻撃を開始しましたが、逆に熊本藩兵の砲撃に多大な損害を受けて撃退され、福原和勝が率いる報国隊の攻撃は頓挫する事になりました。続いて山県有朋が率いる奇兵隊が山間部より赤坂の突破を試みました。この奇兵隊の攻撃は、かつての高杉晋作のクーデターの際の太田絵堂の戦いで活躍した山田鵬輔が率いる第一小隊を先鋒に攻撃を開始しました。この奇兵隊と熊本藩兵による一進一退の激戦が繰り広げられますが、遂に山田鵬輔は銃撃を受けて戦死しました。また、この山田鵬輔が率いた第一小隊自体も、熊本藩兵の猛攻により壊滅させられました。この山田の戦死をきっかけに山県有朋が率いる奇兵隊の攻撃も頓挫しました。一方、迂回攻撃を目指した時山直八の軍も熊本藩兵の抵抗に阻まれて撤退しました。またこの苦戦を見て高杉晋作は熊野直介に命じて予備戦力を率いさせますが、この部隊もまた熊本藩兵に撃退されました。こうして、これまで連戦連勝だった長州藩兵も、遂に熊本藩兵が守る赤坂口を突破出来ずに、全面撤退する事になりました。この様に、この日の赤坂口の戦いは熊本藩兵の勝利に終り、初めて長州藩兵の攻勢は失敗する事になりました。

その次に、ポーツマス条約が締結され、日露戦争が終結です。アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって日本とロシア帝国との間で結ばれた日露戦争の講和条約です。アメリカ東部の港湾都市ポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所で、日本全権の小村寿太郎(外務大臣)とロシア全権のセルゲイ・Y・ウィッテの間で調印されました。日露戦争で終始優勢を保っていた日本は、日本海海戦の戦勝後、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であった事から、当時、英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていたアメリカ合衆国に対し「中立の友誼的斡旋」(外交文書)を申し入れました。米国に斡旋を依頼したのは、陸奥国一関藩(岩手県)出身の日本の駐米公使・高平小五郎でした。以後、和平交渉の動きが加速化しました。講和会議は、1905年8月に開かれました。当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘で敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さない」と主張していた為、交渉は暗礁に乗り上げていました。たが、日本としてはこれ以上の戦争の継続は不可能であると判断しており、またこの調停を成功させたい米国はロシアに働きかける事で事態の収拾をはかりました。結局、ロシアは満州および朝鮮からは撤兵し、日本に樺太の南部を割譲するものの、戦争賠償金には一切応じないというロシア側の最低条件で交渉は締結しました。半面、日本は困難な外交的取引を通じて辛うじて勝者としての体面を勝ち取りました。この条約によって、日本は満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、軍事費として投じてきた国家予算1年分の約4倍にあたる20億円を埋め合わせる為の戦争賠償金を獲得する事ができませんでした。その為、締結直後、戦時中に増税による耐乏生活を強いられてきた国民によって「日比谷焼打事件」などの暴動が起こりました。日比谷焼打事件:東京・日比谷公園で講和条約反対を唱える民衆による決起集会が開かれました。そして、遂に怒りで暴走した民衆たちによって日比谷焼打事件が始まりました。暴徒化した民衆は内務大臣官邸、国民新聞社、交番などを襲って破壊しました。この時、日本正教会がロシアと関係が深かった事から、ニコライ堂とその関連施設も標的になって焼かれる寸前でしたが、近衛兵などの護衛により難を逃れました。また群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の米国公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会までも襲撃の対象となりました。これにより東京は無政府状態となり、日本政府は戒厳令(緊急勅令による行政戒厳)を敷く事でようやくこの騒動を収めました(戒厳令廃止は11月29日)。この騒動により、死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上(このうち有罪となったのは87名)に上りました。

その次の次に、ソ連対日参戦:ソ連軍が北方領土(国後島、択捉島、色丹島、歯舞群島)を占領、北方領土問題の始まりです。1945年9月2日、日本は降伏文書に調印しました。この時、南樺太・千島の日本軍は赤軍極東戦線に降伏する事が命令され、南樺太・千島はソ連の占領地区となりました。1945年ドイツ敗北の3ヵ月後、ソ連は米・英との合意にしたがって対日宣戦布告しました。翌日、ソ・満国境を越えて満州に進攻、8月14日に締結されたソ華友好同盟条約に基づいて、満州を日本軍から奪取しました。満州の日本軍は、蒋介石の国民党軍ではなく、赤軍に対し降伏すると取り決められていました。一方、南樺太では、8月11日、日ソ国境を侵犯し、日本に侵攻した赤軍は8月25日までに南樺太全土を占領しました。樺太占領軍の一部は、26日に樺太・大泊港を出航し、28日、択捉島に上陸し、9月1日までに、択捉・国後・色丹島を占領しました。歯舞群島は9月3日から5日にかけて占領されました。

そのまた次に、ミュンヘンオリンピック事件です。1972年9月5日未明、ミュンヘン五輪の選手村へ「黒い九月」のメンバー8名が、敷地のフェンスを乗り越えて侵入しました。メンバーは、持ち込んだ自動小銃や手榴弾などで武装・覆面した上で、午前4時頃に選手村のイスラエル選手団宿舎へ突入しました。彼らがフェンスを乗り越えているのを目撃した警備員がいましたが、夜間に外出した選手達が人目を忍んで戻ってきたと思いました。犯人グループはイスラエル選手団居住フロアに侵入、抵抗したユダヤ系アメリカ人選手とレスリングのコーチ、モシェ・ワインバーグの2名を殺害、ワインバーグを庭先へ放置し、9名を人質に取りました。この襲撃時に1人が窓から飛び出して脱出、唯一の生存者となりました。午前5時30分、警察官がワインバーグの遺体を発見、立て籠もる「黒い九月」に気づき、事件が発覚しました。「黒い九月」の占拠部隊は宿舎から2ページの宣言文からなる犯行声明を警察側へ投げ入れ、イスラエルに収監されているパレスチナ人234名を午前9時までに解放するよう要求しました。午前6時20分にテレビの生中継で報道が始まり、事件の最後まで実況中継されました。地元警察は時間稼ぎの為、交渉を行ないました。午前8時45分、ミュンヘン警察の署長は五輪関係者2人と玄関先で占拠部隊のリーダーと交渉を行い、まだイスラエル当局と協議中である事にし、期限を午後0時まで延長させました。しかし、解放されなければ人質2人を射殺する条件でした。西ドイツは、事件発覚直後からイスラエルとの交渉を開始、イスラエルの首相ゴルダ・メイアはこの要求を拒否、イスラエル軍部隊による事態解決を西ドイツに打診しますが、西ドイツ側は自国で対応するとして拒否しました。西ドイツ当局は交渉による解決を断念する事に追い込まれ、武力解決を強要される事になりました。しかし、当局側は占拠部隊の人数が判っていなかった為、イスラエルと交渉中であると騙し、何度も期限延長をさせました。午後5時、五輪関係者を人質の確認と称し、宿舎へ潜入させる事に成功しました。この五輪関係者が見た占拠部隊のメンバーが5人であった事から、5人と断定して突入の準備を行いました。地元警察は突入部隊を編成しましたが、テレビやラジオで実況中継された為、占拠部隊に気づかれて中止となりました。その後の交渉で、占拠部隊は飛行機でエジプトの首都カイロへ脱出する事を要求し、合意しました。午後10時、占拠部隊と人質は宿舎の地下からバスで200m離れた草地へ移動、そこから2機のヘリコプターで空港まで行き、その後は飛行機に乗り移って国外に脱出する手筈でした。しかし。これは表向きの話で実際はバスでの移動中、または空港で犯人グループを狙撃し、人質を解放する計画でした。午後10時30分、占拠部隊と人質を乗せたヘリコプターがフュルステンフェルトブルック空軍基地に着陸しました。基地には、占拠部隊を狙撃する為に警察官が待ち構えていました。狙撃する警察官は軽装で、一般警察用モデルを使用し、管制塔バルコニーに3人と滑走路上に2人が向かい合うように配置されていました。占拠部隊のリーダーと副リーダーは安全の確認の為に、用意されたルフトハンザドイツ航空のボーイング727へ入りましたが、誰もいない機内を不審に思い、ヘリコプターへ走って逃げました。その時、滑走路上の狙撃手の1人が発砲し副リーダーは太ももを負傷しましたが、リーダーがヘリコプターまでたどり着き、双方が応戦を始めて銃撃戦になりました。占拠部隊はヘリコプターに立てこもり、狙撃手も応援部隊を待つことにしました。午後11時30分頃、警察の応援部隊が到着しましたが、これが占拠部隊側を刺激し、ヘリコプター1機を手榴弾で爆破するなどして激しく抵抗し、警察もこれに激しく応戦しました。どちらが殺害したか、誤射であったか、同士討ちであったのか、自決であったかは不明ですが、結果的に人質9名全員と警察官1名が死亡するなどして事件は最悪の結果で終結しました。犯人側は8名のうちリーダーを含む5名が死亡し、残りの3名は逃走を図りますが、その後逮捕されました。だがこの3名は同年10月29日のルフトハンザ航空615便ハイジャック事件で解放されることになります。イスラエルではオリンピックの中止を求めるデモも起きましたが、反ユダヤ的言動で知られたアメリカIOC会長、アベリー・ブランデージにより続行が指示され、翌日にイスラエル選手団の追悼式が行われ、オリンピックは34時間ぶりに再開されました。この事件に対し、イスラエル政府は報復として空軍にPLOの基地10カ所の空爆を命じました(イスラエルによるシリア・レバノン空爆)。これにより、65名から200名が死亡しました。イスラエルは空爆に続いて、さらなる報復および同様のテロの再発を防ぐ為に、「黒い九月」メンバーの暗殺を計画します。ゴルダ・メイア首相と上級閣僚で構成される秘密委員会を設置しました。委員会はイスラエル諜報特務庁(モサッド)に対して、ミュンヘンオリンピック事件に直接もしくは間接に関与した者の情報収集を行なわせ、これに基づき委員会は暗殺の対象を決定、モサッド内部の「バヨネット」と呼ばれる部隊に暗殺実行を指示しました。この秘密作戦には「神の怒り作戦」というコードネームがつけられました。最初に暗殺されたのはアラファト議長のいとこで翻訳家のワエル・ズワイテルで、ローマの自宅アパート内で射殺されました。その後もモサッド工作員はターゲットを銃、あるいはリモコン式の爆弾で次々と暗殺しました。だが、「黒い九月」も反撃を開始し、モサッドの工作員、情報提供者などを殺害しました。イスラエル軍とモサッドは1973年4月9日、ベイルートにあるPLOと「黒い九月」の幹部らが宿泊していたアパートを奇襲しました(イスラエルによるレバノン襲撃)。カマル・ナサラ、ユーセフ・ナジャール、カマル・アドワンの幹部3名を殺害しました。この時、暗殺部隊はイスラエルから船でベイルートに移動し、敵の目を欺く為に半数は女装していましたが、警備兵に気付かれて銃撃戦になり、強行突入の末に幹部を射殺しました。当時のベイルートはPLOの本拠地であり、敵中における軍事作戦でした。部隊を指揮していたのは後のイスラエル首相となるエフード・バラクで、彼も女装して幹部らのアパート襲撃に加わりました。モサッドによる暗殺計画は、人違いにより無関係な一般市民を射殺したことから明るみに出ることになります。ノルウェールのリレハンメルで1973年7月21日、モサッドはミュンヘンオリンピック事件の黒幕とされるアリ・ハッサン・サラメらしき男性がバス停にいるところを射殺しましたが、この男性は全く無関係のモロッコ人でした。この事件でモサッド工作員の内5名はノルウェー警察に逮捕され、車や名簿などが押収されました。この時逮捕された工作員の内、一部が他のヨーロッパ各国におけるモサッドの暗殺計画を自白した為、ヨーロッパ各国はイスラエルの行動に懸念を示すことになりますが、モサッドによるサラメの暗殺計画は続行されました。その後、モサッドはベイルートにサラメがいることを突き止めると、彼がプレイボーイであることに注目し、イギリス人女性のエリカ・チャンバース(モサッド工作員シルビア・ラファエルの変名)を接近させて彼に関する情報を収集しました。1979年1月22日、暗殺部隊とチャンバースは彼の車が通る場所に車爆弾を仕掛け、通過した際に彼を車ごと爆破して殺害しました。チャンバースは暗殺後すぐに出国して姿を消し、サラメの殺害により作戦は終結したとされました。これらの作戦についてイスラエルとモサッドは正式な発表を行なっていませんが、20名以上のパレスチナ武装組織の人間が暗殺されたといわれています。2005年に公開されたスティーヴン・スピルバーグ監督の映画「ミュンヘン」はこの「神の怒り作戦」に関わったという元工作員の実話に基づくものです。

最後に、王貞治に初の国民栄誉賞が贈られるです。国民栄誉賞は、当時の内閣総理大臣・福田赳夫が、本塁打世界記録を達成したプロ野球選手・王貞治を称える為に創設したのが始まりです。背景には、先に設置されていた顕彰、内閣総理大臣顕彰が「学術および文化の振興に貢献したもの」など6つの表彰対象を定めていた反面、プロ野球選手を顕彰した前例がなかったという事情がありました。その為、より柔軟な表彰規定を持つ顕彰として創設されたのが「国民栄誉賞」でした。本賞は、1977年8月30日に内閣総理大臣決定された国民栄誉賞表彰規程に基づいており、その目的は「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えること」と規定されています。表彰の対象は、「内閣総理大臣が本表彰の目的に照らして表彰することを適当と認めるもの」であり、かなり幅広い解釈が可能です。最初の授賞者である王貞治が中華民国籍であったことで、日本国籍は要件にありません。また公開されている授与基準の他に、「これまで功績を積み重ねてきた上に、さらに歴史を塗り替える、突き抜けるような功績をあげた」という「暗黙の了解」を満たしていることも必要です。受賞者には「表彰状及び盾」のほか「記念品又は金一封」が贈られます。サッカー日本女子代表まではすべて記念品の贈呈となっており、多くは銀製品や時計で、王貞治には鷲の剥製が贈られました。これまでに22人の個人に対して授与されており、うち12名は没後の受賞でした。2011年には初めて、団体としてのサッカー日本女子代表に授与され、その対象は選手とスタッフの35名となりました。
以下が国民栄誉賞を受賞した人物です。
王貞治:ホームラン世界新記録達成
古賀政男:独自の曲調「古賀メロディー」の作曲
長谷川一夫:真摯な精進卓越した演技と映画演劇界への貢献
植村直己:世界五大陸最高峰登頂
山下泰裕:柔道で前人未踏の記録達成
衣笠祥雄:連続試合出場世界新記録達成
美空ひばり:歌謡曲で国民に夢と希望を与えた
千代の富士貢:相撲で通算勝ち星最高記録更新
藤山一郎:歌謡曲で国民に希望と励ましを与えた
長谷川町子:漫画「サザエさん」で戦後の日本社会に潤いと安らぎを与えた
服部良一:数多くの歌謡曲を作り、国民に希望と潤いを与えた
渥美清:映画「男はつらいよ」で、人情味豊かな演技で国民に喜びと潤いを与えた
吉田正:「吉田メロディー」の作曲で国民に夢と希望と潤いを与えた
黒澤明:数々の不朽の名作で国民に深い感動を与え、世界の映画史に足跡を残した
高橋尚子:シドニー五輪女子マラソン優勝、陸上競技で日本女子初の金メダルを獲得
遠藤実:世代を超えて長く愛唱される情感に満ちた名曲を、数多く世に送り出した
森光子:長年、芸能分野の第一線で活躍し「放浪記」で2千回を超える主演
森繁久彌:芸能で長年第一線で活躍、数多くの優れた演技と歌唱は国民に愛された
2011 FIFA女子W杯日本女子代表:東日本大震災で日本国民が極めて困難な状況下で、FIFA女子W杯初優勝、最後まで諦めない姿勢で、国民に感動と困難に立ち向かう勇気を与えた
吉田沙保里:世界大会13連覇、レスリング競技史上、前人未到の偉業で国民に感動と希望、勇気を与えた
大鵬幸喜:1960年代に「子どもの好きな物」ジャイアンツ、玉子焼きと並び称される事が流行語となり、大相撲史上最多32回の幕内優勝で「昭和の大横綱」として輝かしい功績
長嶋茂雄:「ミスタープロ野球」として誰からも愛される国民的スター、プロ野球を国民的なスポーツにし、野球界の発展に顕著な貢献をし、国民に深い感動と社会に明るい夢と希望を与えた
松井秀喜:長嶋茂雄と師弟関係で、ひたむきな努力と真摯なプレイで日米20年間、チームの主軸を担い、日本人初のワールドシリーズMVP獲得、「ゴジラ」の愛称で日米の国民から親しまれ、社会に大きな感動と喜び、青少年に夢や希望を与えた
伊調馨:オリンピック競技大会史上初めて、女子個人種目・格闘技系種目の四連覇という世界的な偉業を成し遂げ、多くの国民に深い感動と勇気、社会に明るい希望を与えた
辞退した人物
福本豊:当時の世界記録939盗塁を達成、中曽根康弘首相から授与を打診されたが、固辞
古関裕而:「東京五輪のオリンピックマーチ」、高校野球の大会歌「栄冠は君に輝く」など、多くの応援歌、行進曲の作曲を手がけ、和製スーザと呼ばれる。授与(没後)が内定していたが、親族が辞退
イチロー:2001年、メジャーリーグで日本人選手史上初となる首位打者を獲得した事により、小泉純一郎内閣から授与を打診されるが、「国民栄誉賞をいただくことは光栄だが、まだ現役で発展途上の選手なので、もし賞をいただけるのなら現役を引退した時にいただきたい」と固辞、2004年にMLBのシーズン最多安打記録を更新して授与を検討されるが、再度固辞

今日の誕生日:伊達政宗、ルイ14世、棟方志功、三崎千恵子、浜田幸一、利根川進、若林豪、フレディ・マーキュリー(クイーン)、草刈正雄、江藤博利(元ずうとるび)、大熊英司、仲村トオル、中村あずさ、久米田康治、レオナルド、YOU THE ROCK★、伊達みきお(サンドウィッチマン)、吉野公佳、山本博(ロバート)、菊地亜美(元アイドリング!!!16号)、金妍兒(キム・ヨナ)、笹川友里、松島夢女(元美少女クラブ31)

今日の記念日:石炭の日/クリーン・コール・デー

今日の「今日訓」:本日は、「クリーン(9)・コール(5)」の語呂合せで「石炭の日/クリーン・コール・デー」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する