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2017年09月03日00:29

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9月3日の日記

今日の出来事:1260年−アイン・ジャールートの戦い:マムルーク朝軍がモンゴル帝国軍を破り、モンゴルの西進を阻止、1868年−東京奠都:「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられる、1977年−王貞治が通算756号ホームランを達成し、ハンク・アーロンの記録を抜いて世界最高記録

今日は、アイン・ジャールートの戦いです。1253年に編成されたフレグの遠征軍は西進を続け、1258年にはバグダードを征服して、スンナ派イスラム社会において最大の権威であったアッバース朝を滅ぼしました。遠征軍は遊牧の適地であるアゼルバイジャン方面にいったん入った後、1260年にシリア北部へと侵攻し、アレッポを征服しました。モンゴル軍には十字軍がシリアの北部に打ち立てたキリスト教徒の諸政権(アンティオキア公国やトリポリ伯国など)やキリキア・アルメニア王国、それにジャズィーラ・アナトリア方面のイスラム教徒の諸政権が服属しました。しかし、アレッポが陥落した1260年の春頃、フレグの兄でモンゴル帝国大ハーンのモンケの訃報がフレグのもとに届き、フレグの本隊は西進を中止して帰還を開始しました。フレグは帰還にあたって、ナイマン族出身でネストリウス派キリスト教徒の先鋒部隊を率いる将軍、キト・ブカをシリアに残しました。キト・ブカはアイユーブ朝の政権が残っていたダマスカスを征服し、アイユーブ朝のエジプト政権にかわってエジプトを支配していたマムルーク朝に降伏を勧告する使者を送りました。しかし、マムルーク朝のスルターン、クトゥズはこれを拒否したため、キト・ブカは麾下のモンゴル軍とキリスト教徒諸侯を率い、マムルーク朝領への侵攻を開始しました。マムルーク朝の前にはエルサレムを失ったエルサレム王国が拠るアッカーがあり、キト・ブカはアッカーに迫りました。キト・ブカ南下の報を受けたクトゥズは配下のマムルークを率い、カイロを出発しました。このマムルーク政権存亡の機に際し、追放されてシリア方面で放浪の日々を送っていたバイバルスら反クトゥズ派のマムルークたちは、クトゥズと和解してその軍隊に加わりました。また、モンゴル軍に降る事を嫌ったアッカーのキリスト教徒たちは、中立の立場を取ってマムルーク朝軍の領内通過を許しました。9月3日、マムルーク朝軍とモンゴル軍は、ガリラヤの丘陵地帯で激突しました。戦場には小さな川が流れており、川にちなんでアラビア語でアイン・ジャールート(ゴリアテの泉)と呼ばれていたので、この戦闘は「アイン・ジャールートの戦い」と呼ばれます。先鋒隊のため1万人強の小勢であったモンゴル軍に対して、数では優位にあったとみられるマムルーク朝軍は全軍を投入する事を避け、まずバイバルスが率いる先鋒隊のみがモンゴル軍の前に進みました。バイバルス隊に対して数で勝ったモンゴル軍は、マムルーク朝軍に突撃して一気に勝敗を決しようとし、後退を始めたバイバルス隊を追撃しました。しかし、待ち受けていたマムルーク朝軍本隊によって包囲されました。そして、攻撃されて壊滅しました。モンゴル軍の司令官キト・ブカは、この戦いで戦死しました。シリア駐留モンゴル軍の壊滅により、マムルーク朝軍はダマスカス、アレッポを解放し、シリアをモンゴル帝国から奪還しました。「アイン・ジャールートの戦い」の後、マムルーク朝軍はシリアを北上し、モンゴル軍の残党やシリアに再侵入してきた部隊を破り、シリアのほぼ全域を平定しました。しかし、アレッポを回復したところで、先の戦いの功労者であるバイバルスと、総司令官であるクトゥズの対立が再燃しました。バイバルスはアレッポの総督に任命されて、この地方に自立する事を目論んでいましたが、クトゥズはバイバルスが独立して自分の地位を脅かす事を怖れ、これを拒否しました。このためにカイロに戻る途上でバイバルスによる軍中クーデターが勃発し、クトゥズが殺されてバイバルスが新しいマムルーク朝のスルターンとなりました。バイバルスはモンゴル帝国の侵攻をはねのけた英雄としてカイロに凱旋し、エジプト・シリアの王として確固たる地位を築きました。その後も毎年のように行われたモンゴルとの戦争で連戦連勝を重ねたバイバルスは、中央アジアからやってきた余所者であるマムルークたちを安定政権の主とする事に成功し、事実上のマムルーク朝の始祖となりました。一方、「アイン・ジャールートの戦い」を前に帰還を開始したモンゴル帝国のフレグはアゼルバイジャンのタブリーズで、次兄のクビライと弟のアリクブケがハーンの位を巡って内紛を始めた事を知ってこの地に留まり、イラン・イラクを勢力圏として自立しました。やがてフレグの子孫によって世襲されるようになるイランにおけるモンゴル政権を「イルハン朝(イル・ハン帝国)」と呼ばれる事になります。

次に、東京奠都です。大木喬任(軍務官判事)と江藤新平(東征大総督府監軍)が、佐賀藩論として「東西両都」の建白書を岩倉具視に提出しました。これは、数千年王化の行き届かない東日本を治めるため「江戸」を「東京」とし、ここを拠点にして人心を捉える事が重要であるとし、ゆくゆくは東京と京都の東西両京を鉄道で結ぶというものでした。徳川氏が江戸から駿府70万石に移される事が決まると、大木喬任・江藤新平の東西両都案が決され、政府は参与・木戸孝允と大木喬任に江戸が帝都として適しているかの調査にあたらせました。2人は総裁・有栖川宮熾仁親王、副総裁・三条実美、参与・大久保利通、東征大総督府監軍・江藤新平らと協議の上、京都へ戻って奠都が可能である事を報告しました。これを受けて、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられました。この詔書では、天皇が日本をひとつの家族として東西を同視するとし、江戸が東国で第一の大都市・要所であるため天皇がここで政治を見る事と、そのために「江戸」を「東京」と称する事が発表されました。保守派や京都市民への配慮から、東京奠都を明確にはしませんでしたが、東西両都の方針通り「東京」が誕生しました。天皇は、政情の激しい移り変わりによって遅れていた「即位の礼」を執り行ない、京都を出発して東京に行幸しました(東幸)。副総裁・岩倉具視、議定・中山忠能、外国官知事・伊達宗城らを伴い、警護の長州藩、土佐藩、岡山藩、大洲藩の4藩の兵隊を含め、その総数は3300人にも及びました。天皇が江戸城へ到着すると、江戸城はその日のうちに東幸の皇居と定められ「東京城」と改称されました。続いて、天皇が皇国一体・東西同視のもと内外の政を自ら裁決する事を宣言する詔「万機親裁の宣言」を発しました。そして東京の市民はこの「東幸」を盛大に祝いました。

最後に、王貞治が通算756号ホームランを達成し、ハンク・アーロンの記録を抜いて世界最高記録を樹立です。読売ジャイアンツの主軸打者として公式戦通算本塁打数868本は、メジャーリーグのハンク・アーロンの755本、バリー・ボンズの762本と並び証される本塁打記録です。日本シリーズ29本、オールスターゲーム13本、日米野球23本、春秋オープン戦98本、東西対抗1本を合算すると計1032本の本塁打を記録しました。その他、数々の日本プロ野球記録を保持しています。初めて、日本の国民栄誉賞を受賞した人物で、2010年には文化功労者として顕彰されました。現在は福岡ソフトバンクホークス球団取締役会長、読売巨人軍OB会会長、日本プロ野球名球会会長を務めています。また、東京都名誉都民、墨田区名誉区民、目黒区名誉区民、福岡市名誉市民、宮崎市名誉市民でもあります。

今日の誕生日:後三条天皇(第71代天皇)、フェルディナント・ポルシェ、楳図かずお、野依良治、アル・ジャーディン(ザ・ビーチ・ボーイズ)、マイケル・ホイ、重信房子(日本赤軍)、ジョニー大倉(元キャロル)、島田誠、野田聖子、チャーリー・シーン、中田久美、水野雄仁、吉田秀彦、田村裕(麒麟)、栗山巧、阿部絵里恵「Erie」(元E−girls、元Dream)、水沢アリー、染谷将太、ドラえもん、ジャムおじさん

今日の記念日:ホームラン記念日、ベッドの日、しんくみの日、エビアンの日、グミの日、クエン酸の日、草の日、三上順(テキサス刑事)殉職

今日の「今日訓」:本日は、王貞治が世界新記録を更新した事で「ホームラン記念日」、1878年9月3日にフランス医学アカデミーで、エビアン水が健康上有益な水としてその効能が認められた事から「エビアンの日」、「グッ(9)スリ(3)」の語呂合わせで「ベッドの日」、「く(9)み(3)あい」(組合)の語呂合わせで「くみ愛の日」として「しんくみ(信用協同組合)の日」、「グ(9)ミ(3)」の語呂合わせで「グミの日」、「クエン(9)サン(3)」の語呂合わせで「クエン酸の日」、「く(9)さ(3)」の語呂合わせで「草の日」となりました。
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