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2017年08月24日05:04

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 【質問】 『古事記』の史書としての評価はどんなもの?(下書き)

 【質問 kérdés】
 『古事記』の史書としての評価はどんなもの?

 【回答 válasz】
 誰が読んでも物理学的にあり得ないと分かる箇所は,最初から論外として.

 『日本書紀』もそうだが,『古事記』における6世紀以前の記述は,不正確な伝説だと見られている.
 上巻は神代の物語,中巻は神武天皇から応神天皇までの記事,下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事が収められているのだが,実質的には神話,伝説,歌謡,系譜が中心で,そのため史料としてはそのまま用いがたい面が多い.

 そのため,第25代・武烈天皇までの天皇は,実在すら疑われている.
(ただし第21代・雄略天皇は,『宋書』『梁書』に記述がある「倭王武」と比定されており,実在した可能性が高いが)

 それどころか偽書説もあったくらいだが,さすがにこの説は現代では否定されている.

 『記・紀』については,中島洋という人が,ちょっと面白い見立てをしているので,以下に引用してみる.

------------
 河内にベンチャー・ビジネスが誕生した.
 小さな小さな会社であったが,特殊な特許を持っており,周辺の町工場に特許を使わせる代わりに,それらの町工場の株式を特許使用料の一部として取得することにした.
 持ち株が一定数に達した時,それらの町工場を次々に吸収し,中企業に成長して本社を奈良に移し,大和株式会社と称した.

 その頃,吉備に吉備株式会社という新進の優良会社があったが,過剰投資で資金繰りに行き詰っていたので,比較的安い価格で買収した.
 さらに,出雲に古い伝統を持つ出雲株式会社というのがあったが,その会社の生産設備は旧式で生産コストが割高であった.
 そこで大和株式会社は,この出雲株式会社の主要マーケットで積極的な販売攻勢を展開して,出雲株式会社を破算に瀕した状態に追い込み吸収した.

 当時,九州には福岡県に本社を持つ強力な,しかも伝統を誇る競争会社があった.
 この会社は,かつては九州株式会社という名称であったが,やがて日本株式会社と改称した.
 この会社は資本の蓄積にモノを言わせて,強引に海外進出を繰り返しては,海外市場で高句麗株式会社や新羅株式会社と激烈なダンピング競争をやっていたので,やがて赤字決算が続き,遂に無配に転落した.

 大和株式会社は,日本株式会社の株価の低迷に乗じて,じわじわと株式を取得していった.
 また,日本株式会社に対し,特許侵害の訴えを起こし,賠償として福岡県粕屋郡の新鋭工場と付属の土地を取り上げた.
 その後,日本株式会社は海外での合弁会社「百済株式会社」の再建に失敗したり,唐株式会社と新羅株式会社による強力な国際カルテルと,無謀とも思える競争に陥ったりして,遂に経営が行き詰まり,大和株式会社に吸収されることになった.

 今や,大和株式会社は社員数も数万人となり,世界有数の大企業に成長した.
 社名も日本株式会社と改称し,社史を編纂することになって,「社史編纂室」が設置された.
 この社史編纂室長を命ぜられたのは,あと数年で定年を迎える中村氏である.
 中村氏は,何とかこの新しい仕事をうまくやり遂げて,定年後は子会社の役員になりたいと思った.

 現在,この会社の役員構成は,会長,社長以下副社長2名,専務3名,常務6名の他,平取締役29名という巨大なものである.
 この中には河内時代からの叩ぎ上げもおり,出雲や吉備出身の人もいる.
 また,九州ではかつての九州株式会社の役員は,全て退任させられ,九州における支社長とか工場長などの主要なポストは,全部奈良の本社から赴任した人々によって占められていたが,旧役員の息子たちも,九州各地の工場や営業所で,課長・係長クラスとして働いていた.

 社史編纂室長の中村氏とそのスタッフは途方に暮れていた.
 なにしろ,日本株式会社の本体は,河内で木造2階建てアパートの一室を借りて事業を発足させたときから数えても,たった30年しかたっていないのだが,かつての九州株式会社は百年の歴史を持ち,外国でも通用するブランドを持っていた.
 しかも,大和株式会社に吸収される直前の頃は,日本株式会社と改称していたのである.
 また,出雲株式会社は規模こそ旧九州株式会社より小さかったが,社史はさらに古く,創立は120年前で,この世界の草分け的存在であったのである.

 中村氏とそのスタッフは,この会社の社史の初年度をどこに置くかという,実に厄介な問題を抱えてしまった.
 30年前の河内のアパートの一室でスタートした時を初年度とすることは実に簡単なことであるが,そうなると,元に出雲株式会社や旧九州株式会社を合併しているのであるから,その古い歴史をどうやって継ぎ合わせるかという問題が生じる.
 何故ならば,合併したと言っても吸収したのは旧大和株式会社のほうだからである.

 この件については役員間でも意見が分かれ,取締役会でも,
「とにかく,社史編纂室に資料を集めさせ,彼らに叩き台を作らせたうえで検討しよう」
という極めて曖昧な結論しか出ていない.
 社史編纂室担当を兼務している取締役は,一,二年後には子会社の一つの社長として転出することが内定しているので,中村氏とそのスタッフの悩みについては,全く興味を示さない.
 次期社長の呼び声高い某専務の懐刀と言われている,ある取締役は出雲の出身で,
「おい,中村君,まさか出雲時代に全然触れないわけにもいかないだろうな」
と意味ありげに言う.
 また,九州担当重役は社長の娘婿であるが,
「九州の人たちも社史の完成を楽しみにしてるよ」
と謎をかける.
 彼は自分が九州担当として実績を上げるには,旧九州株式会社系の人々の全面的な協力が必要だということを十分に知っていて,そのためには社史に旧九州株式会社の輝かしい過去を記載すべきだと思っているので,このような発言をするのである.
 また,河内時代からの叩き上げの常務は,
「君,分かっとるな? うん,まあ,そのうちに一緒に飯でも食おう」
などと言う.

 中村氏は,このような社内の有形無形の圧力だけでなく,社外からの圧力も感じていた.
 中村氏が社史編纂室長に就任した途端,証券会社や銀行から就任祝いが届けられ,続いてお中元やお歳暮の品も送られてくるようになった.
 中村氏の奥さんは,これを単純に喜んでいるが,中村氏にとってはこれらの品物も,証券会社の
「株式公開の時の当社の幹事会社としての働きを忘れてはいないでしょうね」
という無言の圧力に思えるし,また,銀行の
「当行の積極的な融資が無ければ,貴社はこんなに大きくはなっていないのですよ」
という暗示に思えるのである.

 社史編纂室は,右往左往しながら仕事を進めていった.
 中村氏は悩み,まんじりともせず眠れない夜も数えきれないくらいであった.
 しかし,こうして年月が経過し,日本株式会社の『社史』はめでたく完成したのである.

------------中村洋『大和王朝の水軍』(双葉社,1976),p.150-154

 同書は論拠が,幾つかの単語の一致だけという薄弱なものである上,上述のように上記引用部分は「お伽噺」と断りが入っているが,ニュアンス的にはそう間違ってはいないと思う.

 教科書レベルであるなら,
「『古事記』『日本書紀』というものが存在する」
程度でいいんじゃないかな?
 全くの無視というのも変だし,さりとて「歴史」という科目の教材にするには,神話が入り込み過ぎていて不向き.
 何より,記紀の中身まで知っていたところで,受験勉強の役には全く立たないので.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/古事記

 【関連リンク】
「青空文庫」◆(2011/8/30) 古事記 現代語譯 古事記
http://www.aozora.gr.jp/cards/001518/files/51732_44768.html
 底本の親本:「眞福寺本」


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