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2017年08月13日09:51

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劉暁波氏死去1カ月:「毛沢東時代のよう」友人が危機感><貫かれた非暴力 劉暁波氏が遺したもの

劉 暁波(りゅう ぎょうは、リウ・シャオポー、1955年12月28日 - 2017年7月13日)は、中華人民共和国の著作家。元北京師範大学文学部講師。民主化運動を始め広範な人権活動に参加し、度々投獄された。



目次 [非表示]
1 人物 1.1 生い立ち
1.2 人権活動期
1.3 壮絶な最期

2 ノーベル平和賞受賞 2.1 選考段階
2.2 受賞
2.3 受賞後の影響・反響 2.3.1 各国での反応
2.3.2 中国政府による抗議と対抗措置
2.3.3 受賞式典への影響
2.3.4 「オスロの誓い」


3 解放要求 3.1 アメリカ議会下院
3.2 ノルウェー・ノーベル賞委員会

4 年譜(略)
5 受賞歴
6 劉暁波判決文(2009年12月25日)
7 思想と主張 7.1 陳述「私に敵はいない」
7.2 その他の主張

8 批判 8.1 丸川哲史による批判

9 著書 9.1 日本語訳

10 参照
11 脚注
12 関連項目
13 外部リンク


人物

生い立ち

吉林省長春市生まれ。1969年、上山下郷運動が行われている間、父と共にホルチン右翼前旗に移る。吉林大学で中国文学を学んだあと、北京師範大学に進学。1984年に修士号取得後、同校で教職に就く。

1980年代半ば、文学評論家李沢厚に対する批判で、中国文壇の「ダークホース」と呼ばれた[1]。

1988年、「美学と人間的自由」により、同校で文学博士号取得[2]。その後、オスロ大学、ハワイ大学、コロンビア大学で客員研究員。

人権活動期

1989年に中国で民主化運動が勃発すると、コロンビア大学の客員研究者として米国滞在中に即座に帰国を決め、運動に身を投じる。六四天安門事件直前、他の知識人3名(侯徳健、高新、周舵)と共に、学生たちの断食抗議に参加した。人民解放軍が天安門広場に突入する寸前、4人は学生たちに武器を捨てるよう説得する一方、軍と交渉し、「四君子(4人の指導的知識人)」と呼ばれた[1]。事件後に「反革命罪」で投獄された。六四天安門事件の他のリーダーの多くが欧米からの圧力もあり「病気療養」の名目で出国許可される中で、1991年の釈放後も出国せずに引き続き文章を発表し、六四天安門事件の殉難者の名誉回復と人権保障などの民主化を呼びかけ、更に2度の投獄や強制労働を受けた。

2008年、「世界人権宣言」発表60周年を画期として発表された、中国の大幅な民主化を求める「零八憲章」の主な起草者となり、再び中国当局に身柄を拘束された[3]。以後は外国要人訪中や人民代表大会会期中は自由を失い、電話・インターネットによる交信が遮断された[要出典]。

2010年2月に「国家政権転覆扇動罪」[4]による懲役11年および政治的権利剥奪2年の判決が下され[5]、4度目の投獄となり遼寧省錦州市の錦州監獄で服役した。

2010年にノーベル平和賞を受賞し[6]、中国在住の中国人として初のノーベル賞受賞者となった[7]。劉は、「この受賞は天安門事件で犠牲になった人々の魂に贈られたものだ」と語り、涙を流したとされる[8]。なお、投獄中の人物に平和賞が贈られたのは、1935年に受賞したカール・フォン・オシエツキー以来の2人目である(1991年に受賞したアウンサンスーチーが被ったのは監獄ではなく自宅軟禁)。ただし、ノーベル賞歴史上では、受賞から辞世までずっと解放されなかった受賞者は劉暁波だけである。

壮絶な最期





劉暁波の追悼デモ
2017年6月26日に遼寧省監獄管理局がおこなった発表によると、末期の肝臓癌と診断された劉暁波は、家族による治療のための仮出所申請が許可され[9][10]、既に監獄から当局の厳重な隔離措置の下に置かれている中国医科大学付属第一病院(中国語版)に移された[11][12][13]。国際社会からは劉暁波氏を国外に移送し治療すべきとの声が高まり[14]、ドイツやアメリカ合衆国も受け入れを表明したが、中華人民共和国の政府及び医療チームは容態を理由に拒否[15][16][17]。7月10日、当局は 劉暁波が危篤状態に陥ったと発表し[18][19]、中国標準時の7月13日午後5時35分、妻・劉霞ら家族に看取られ、肝臓癌による多臓器不全のため逝去。61歳没[20]。当局によれば、最期の言葉は、妻にかけた「あなたはしっかり生きなさい」「幸せに暮らして」だったと伝えられているが[21][22]、妻は北京当局による隔離措置の下に置かれたままである[23][24][25]。なお、悲報を受けたノルウェー・ノーベル委員会は直ちに北京当局のずさんな治療責任に対して非難声明を公表された[26]。

なお、投獄中にノーベル賞平和賞を贈られ、解放されないまま死去したのは、1935年に受賞したカール・フォン・オシエツキーに次いで2人目である[27]。
---------------------------------------以上転載ーーー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E6%9A%81%E6%B3%A2




劉氏死去1カ月 友人が危機感
8/13(日) 7:58 掲載 .

1996年夏、四川省成都で劉暁波氏(左)と並ぶ廖亦武氏=廖氏提供(毎日新聞)


<劉暁波氏死去1カ月>「毛沢東時代のよう」友人が危機感

毎日新聞

2 時間前



 【北京・河津啓介、ベルリン中西啓介】先月13日に死去した中国の民主活動家でノーベル平和賞受賞者の劉暁波(りゅうぎょうは)氏と共に反体制作家として闘ってきたドイツ在住の中国人作家、廖亦武(りょうえきぶ)氏(59)が毎日新聞の取材に応じ、劉氏の生前の思い出を語り、死後も厳しさを増す中国の言論統制への危機感を訴えた。

 劉氏と初めて出会ったのは1985年、詩人仲間だった劉氏の妻・霞さんの北京の自宅だったという。「当時の劉氏は気鋭の学者で文芸評論家として大胆に発言し、尊大に思えることもあった」

 その4年後、「人生の分岐点」(廖氏)が訪れた。89年6月に多数の犠牲者を出した天安門事件。劉氏と廖氏は事件に関連して投獄された。「事件後、劉氏はずっと罪悪感を背負っていた。『犠牲者のために生きねば』と民主化に人生をささげ求道者のように生きることを選んだ」

 廖氏にとり劉氏は、笑い合い、言い争いもした友でもあった。記憶に残るのは96年夏、廖氏の地元、四川省成都でのハイキングだ。途中で「負けたら10元(165円)」と将棋を指し、3連続で負けた廖氏が走って逃げ出すと、劉氏が追いかけてきた。「金は払わないよ」「だったら裸になれ!」。なぜか2人で服を脱ぎ山中を騒いで駆け回った。

 その楽しい思い出は、苦い記憶とも結びついている。ハイキングの直後、霞さんから電話で劉氏が身柄拘束されたと聞いた。電話口で20分間続いた霞さんの泣き声を「昨日のように覚えている」。


1996年夏、四川省成都で劉暁波氏(左)と並ぶ廖亦武氏=廖氏提供コピーライト 毎日新聞 1996年夏、四川省成都で劉暁波氏(左)と並ぶ廖亦武氏=廖氏提供
 劉氏の死後、廖氏は劉氏から受け取った手紙を読み返した。「一人の殉難者が民族の魂を根底から変える」。劉氏は信じた道に殉じたが、現実は厳しいままだ。

 「中国社会は臨界点にある。新聞を読むと毛沢東時代に戻った気さえする」。それでも廖氏は決意を語った。「劉氏が願った社会まで道のりは長いが理想を掲げ、努力を続けなければ」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上転載ーー
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170813-00000010-mai-cn



妻・劉霞さんの軟禁続く 出国できるかは不透明

出典:毎日新聞 8/13(日)
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中国ではそもそも劉氏を知らない国民も多いとみられる

出典:AbemaTIMES 7/16(日)
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貫かれた非暴力 劉暁波氏が遺したもの

出典:NHK 7/18(火)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上転載ーーー
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6250315




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