SNS やblogが花盛り賑やかなりし昨今、
テレビや新聞、書籍、情報誌を通じてよりも
多量な言葉と概念やイメージが虚構世界・妄想世界を無数に産み出しているようです。
確かに、情報操作と隠蔽捏造に邁進して来た大新聞の購読者数が1/3に減ったとか、テレビの視聴者が1/2になったとか言われていますが、インターネットやスマホでの情報量がその分増えたとしても、情報の質や真実性が高くなったとは言えないようです。
むしろ、コピペ出来たり、部分削除や改変はとても簡単に個人で出来るので、情報の怪しさと不信性は一層増したかも知れません。
単に字面を追って言葉だけを解釈しても、その中身の真実度を確保することは出来ません。
対面会話や電話会話ならまだ顔の表情、声のイントネーションから、その真の意図と意味をある程度観じとる事が出来ますが、言葉だけのイメージ解釈では、その人の思い込みと信じたい事柄に応じて、無数の解釈が生じているのが現実です。
情報化社会50年は間近ですが、今一度情報の洪水に関して考えて見る事も必要ではないかと……。
言葉と画像・映像だけから全てを把握する事は不可能であり、その中の誠に響く感覚的なフィーリングと意図を絞り込まなくてはなりません。
詰まりは、体験を通して学び知ったあの感覚を元に言葉の行間を読み取る必要があります。
そもそもそれが今の自分にとって必要な事なのかどうかを最初に問わねばなりません。
日常の必要な日課や行動の他にしなければならない今の自分の意識方向を定めて、1日に1つでも有り難い事柄を真に知るだけでも素晴らしいことであります。
今の無数無類の情報は、食事と同じで、食べすぎれば病気になるのは同様に当然なことです。
「足るを知る」は食事と同じく情報についても当てはまるのであります。
無心に瞑想して時を止める事は、プチ断食をしてお腹や頭を休めるのと同じく身体にとってリセットできる絶好の機会でありましょう。
多くを求めず、最小限度を堪能する。
これは現代の情報過多についても言えることではないでしょうか。
1日の中で、情報のプチ断食をしてみては如何でしょうか?
頭が休まり、静かになって、再び無限の意欲が湧き出て来る事でありましょう。
貴重な体験と言葉の小食で足るを知る平常心。
ない ことは ある ことを 凌駕するのです。
合掌拝霊。
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