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2017年06月24日21:09

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朝鮮通信使

2016年1月28日、韓国聯合ニュースによると、日本のNPO法人「朝鮮通信使縁地連絡協議会」と釜山文化財団が、日韓の平和と善隣友好の象徴と言われる「朝鮮通信使」に関する資料111件、333点をユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界記憶遺産に登録申請し、 登録の可否は2017年7月ごろに決まるとのこと。

韓国では、「朝鮮通信使は日本に儒教をはじめ、さまざまな文化や技術を伝承した」という捏造を教えている。ユネスコ登録に、在日韓国人の朝鮮通信使縁地連絡協議会と、韓国が係っているので、朝鮮通信使が日本に文化を伝え、日本はそのおかげで発展したという捏造内容で登録を目指しているようだ。

そもそも、外交団や使節ではなく、なぜ通信使なのか? 16世紀の末、豊臣秀吉は文禄・慶長の役で朝鮮半島に出兵した。朝鮮は宗主国の中国の明の援軍を要請したが、秀吉の病死で朝鮮出兵の停戦後、停戦協定に従って明軍は本国へ撤退。朝鮮は、明軍がいなくなったら日本がまた攻めてくると恐れ、日本に事大する(強い勢力に迎合して自己保身を図ろうとすること)しかないと考えた。もし朝鮮軍が強かったら、日本を恐れて事大する必要はない。中国の属国の朝鮮は、外交権が宗主国の中国から剥奪されていたため、日本と表立って外交するわけにいかず、日本と勝手に国交をしたら中国から叱責されるので、そこで手紙を運ぶ郵便屋となり、外交団ではありませんという立場から「通信使」を送った。つまり朝鮮通信使は、日本への朝貢(下位の国が上位の国に贈り物を差し出すこと)使節団だった。

しかし、捏造歴史が好きな韓国政府は、この事実を必死で隠している。「日東壮遊歌」は、鮮通信使の日本の繁栄に対する妬みひがみが描写されているので、韓国はウィキペディアの英語版の「日東壮遊歌」を削除してしまった。「日東壮遊歌」については後述する。

朝鮮通信使の連中は素行不良で、屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする、酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す、席や屏風を割る、馬を走らせて死に至らしめる、供された食事に難癖をつける、日本で鶏や夜具を盗み、宴席で料理を盛っていた陶器や漆器をこっそり懐に入れて盗み、下働きの下女や文宿の女性を強姦したり、孕ませたりの常習犯の乞食土人。そのくせ横柄な態度で、日本国内の道中や文化交流の際にも、周囲や日本の文人に対して著しく無礼な態度をとることが多く、警護に当たる対馬藩士が侮辱を受けることがしばしばあったという。このような事情から一般町人に嫌われ、町人と喧嘩沙汰になることが多々あり、横柄な態度の割に非常に弱く簡単に叩きのめされたという。喧嘩が発生すると侍は、本来警護の者として制止すべき立場であるにもかかわらず、止めるふりすらしなかったといい、道中の内実がいかなるものであったかが伺えるとのこと。また、朝鮮通信使が通り掛ると暇な庶民たちが自作の漢詩を推敲してもらおうと押しかけたそうで、通常なら庶民が高貴な者にそんな厚かましい振る舞いはしないので、朝鮮通信使たちは庶民からも身分の高くない軽い存在と見られていたのである。

「江戸時代を『探検』」する」山本博文著 新潮社より↓
「通信使の随員の中には、段々と尊大な行動をする者も現れた。出船の時に、前夜出された夜具を盗んで船に積み込んだり、食事に難癖をつけて、魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したりというような些細なことから、予定外の行動を希望し、拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたりするようなこともあったという」

「さて、また1764年4月6日。この日の昼、江戸からの帰途、大阪は長浜の荷揚げ場で、朝鮮の下級官人が鏡を紛失しました。通信使の都訓導(中級官人)、崔天宗という者が、これを咎め、「日本人は、盗みの仕方が上手だ」と悪口を言いました。これに対応した鈴木伝蔵という対馬藩の通詞(通訳)は、紛失しただけで何の証拠も無く日本人が盗ったと言われたのは「日本の恥辱」になると感じ、また、日頃から通訳として朝鮮通信使のそばにいて、彼らの姑息な窃盗にうんざりしていたので、「日本人のことをそのように言うが、韓半島人も、食事の際に出た飾りの品々(食器など)を持って帰っているではないか。これをどう思うのか」と言い返しました。鈴木伝蔵に痛いところを突かれた崔天宗は、身に覚えがあったからでしょう。頭に血が上り、人々が見ている前で、鈴木伝蔵を杖で何度も打ちました」
武士である鈴木伝蔵は、火病を起こした崔天宗の無礼な振る舞いに怒り、夜中に崔天宗を槍で刺殺した。

江戸時代後期の儒学者菅茶山は「朝鮮より礼儀なるはなしと書中に見えたれど、今時の朝鮮人威儀なき事甚し。」と、朝鮮人が伝聞とは異なり無作法なことに驚いている。現代において、韓国人や在日韓国人が四天王寺ワッソ等の朝鮮通信使を再現するパレードを日本各地で主催する行為は、「歴史的な文化先進国の朝鮮と文化劣等国の日本」という捏造歴史認識を、日本に広める意図が込められているのである!

京都大学所蔵の「朝鮮人来聘記」に、鶏を盗んで町人と喧嘩する朝鮮通信使が描かれている。
フォト

鶏を奪おうとする朝鮮通信使たちと、もみ合っている町人たち。その足下には人が倒れている。盗まれた鶏を、取り返そうとして、返り討ちにあったようだ。画面中央では、かっぱらった鶏を仲間に渡そうとしている者と、受け取ろうとしている者。鶏を脇に抱えた町人の襟のあたりをつかんで、鶏を奪おうとしている朝鮮通信使の姿も見える。朝鮮通信使は、先進文化を日本人に伝える使節と史実を捏造する反日連中にとって、鶏泥棒は不都合な事実なので、逃げた鶏を町人が捕まえるのを朝鮮通信使が手伝っていると朝鮮傀儡勢力が捏造をばらまいているが、庶民でさえ朝鮮通信使を軽んじ、素行不良の泥棒朝鮮通信使に怒りを感じていたので絵にしたのは明白である!

李氏朝鮮時代を旅行したイザベラ・バード著書の朝鮮紀行(p133)↓
「彼ら(朝鮮人)は、たいがい内気で、私たちの姿が目に入るとあわてて鶏をひっつかんで隠してしまう」
これは、鶏泥棒の現場を見られて、慌てて隠したということだ。

李氏朝鮮時代を旅行したイザベラ・バード著書の朝鮮紀行(p137)↓
「伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民たちを脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない」
両班というのは李氏朝鮮時代の貴族階級であり、泥棒貴族の命令で従者たちが泥棒するのである。

李氏朝鮮時代を旅行したイザベラ・バード著書の朝鮮紀行(p558)↓
「朝鮮には階級はふたつしかない。盗む側と盗まれる側である。両班から登用された官僚階級は公認の吸血鬼であり、人工の五分の四をゆうに占める下人(ハイン)は文字どおり『下の人間』で、吸血鬼に血を提供することをその存在理由とする」

朝鮮通信使は、そもそも日韓の平和の友好の象徴ではなく、韓国の日本への朝貢使節団であった。朝鮮通信使は数百人という規模の人員が、朝鮮から日本にのみ送られた。朝鮮側が言う平和と友好の交流なら、相互に人員を送らなければ不公平になる!朝鮮通信使は天皇陛下にお目通りすら叶わず、江戸時代には朝鮮通信使は、将軍就任に合わせて送られ、就任のお祝いの通信使は大手門から入れてもらえず、裏門から入ることになっており、江戸城裏門から出入りした庶民に、二階の窓から見下されていたとのこと。20年に一度程しか来ない朝鮮通信を、当時の庶民たちが単なる珍奇な見世物への好奇の目で眺め、地方の大名などよりかるかに格下の存在と認識していた証であり、当然、文化的恩恵など皆無であった。朝鮮通信使をまねた唐人踊りという滑稽な芸が、庶民の間で流行っただけだそうである。これからも、当時の庶民から馬鹿にされていたのが伺われる。

「徳川実記」に「(寛永20年7月18日)朝鮮国信使聘礼行はる。よて信使は辰刻本誓寺の旅館を出て、路中音楽を奏し、その国書を先に立てまうのぼる。上官は大手門下馬牌の下より馬を下り(以下略)」などの記録があるが、裏門へ回る際にもここで下馬せねばならず、この事からも、大手門から入場できなかったことが伺える。

江戸幕府は、朝鮮通信使の来日について、「貢物を献上する」という意味を含む「来聘」という表現を用い、使節についても「朝鮮来聘使」、「来聘使」、「朝鮮聘礼使」、「聘礼使」と称し、一般にもそのように呼ばれていた。このことからも両国が対等でなかった証である。事実を世界遺産に登録するなら、朝鮮通信使は日本に朝貢していた素行不良の鶏、布団、漆器泥棒であることを世界に伝えるのが筋である!

ちなみに、日本文明は海を通して南から伝わったとのこと。民族学者の柳田国男の著書「海の道」は、日本文化の源を沖縄を通して南方に求め、日本民族の渡来について言及したものだそうだ。海の道を通して高い文明を取り入れた古代日本は、稲作などその一部を朝鮮にも教えてやった。中国政府の研究機関が、日本の稲作の伝来を科学的に証明し、中国南部→日本列島→朝鮮半島として、諸外国の研究機関も納得しているが、 韓国だけが稲作が日本から朝鮮半島に伝わったことに反対している。韓国の妄想と政治的理由により、歴史が歪められるのは言語道断である!

珍奇な見世物に人々が群がる様子を「国賓待遇だった」とか、「各地で大歓迎を受けた」と韓国は妄想し、進んだ文化の朝鮮という認識を押し付けてユネスコに登録を目指すという行為は、歴史捏造以外の何物でもない!

朝鮮通信使が日本に対する嫉妬と劣等感の塊であったことは、江戸時代に、徳川家治の将軍襲職祝いの朝鮮通信使として来日した金仁謙(Kim In Kyeom)の日本旅行の著書「日東壮遊歌」に、ハングルで書かれている。当時の知識階級の男性は、漢文で書くのが当たり前であったが、あえてハングルで書いたのは、知識層の公用語である「漢語」では著せない、赤裸々な心情をハングルで書いたと思われる。

参照:news archives金仁謙 著『日東壮遊歌』日本の繁栄を羨み恨む朝鮮通信使の記録
http://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/ee10cebd4441efe900f466b8f41044f8

●1764年1月22日 大阪
100万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。凄い。 大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、 銅の屋根で、黄金の内装である。 この贅沢さは異常だ。都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。信じられない。 中国の伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。 世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。ソウルの繁華街の10000倍の発展だ。北京を見た通訳が通信使にいるが、「北京の繁栄も大阪には負ける」と言っている。穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地にやってきた。そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。嘆かわしく、恨めしい。

●1764年1月28日 京都
街の繁栄では大阪には及ばない。しかし倭王(天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。 山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、肥沃な農地が無限に広がっている。この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。悔しい。「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。悔しい。この犬のような倭人を全て掃討したい。この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。

●1764年2月3日 名古屋
街の繁栄、美しさは大阪と同じだ。凄い。自然の美しさ、人口の多さ、土地の豊かさ、家屋の贅沢さ…この旅で最高だ。中原(中国の中心地)にも無い風景だ。朝鮮の都も立派だが、名古屋と比べると、とても寂しい。人々の美しさも最高だ。特に女性が美しい。美しすぎる。あれが人間だろうか? 楊貴妃が最高の美人だと言われているが、名古屋の女性と比べれば、美しさを失うだろう。
(帰路にて)
名古屋の美人が道を歩く我々を見ている。我々の一員は、名古屋の美人を一人も見逃さないように、頭を左右に必死に動かしている。

●1764年2月16日 江戸(東京)
左側には家が連なり、右側には海が広がっている。山は全く見えず、肥沃な土地が無限に広がっている。楼閣や屋敷の贅沢さ、人々の賑わい、男女の華やかさ、城壁の美しさ、橋や船…。 全てが大阪や京都より三倍は優っている。この素晴らしさを文章で表現する事は、私の才能では不可能だ。女性の美しさと華やかさは名古屋と同じだ。

「日東荘遊歌」イルボンは凄いニダ

金仁謙著の「日東荘遊歌」(東洋文庫、定価3100円)を読んだのですが、1764年当時の日本は明らかに朝鮮よりも進んだ国家でした。それなのにどうしてチョンは、「日本はウリナラより100年進んだだけニダ」と言い切るのでしょうか。理解に苦しみます。

(大阪港の感想)
「その昔、桜船で下る王濬(おうしゅん)が益州を称えた詩があるがここに比べてみれば間違いなく見劣りするであろう」
「倭の十一隻の金の桜船が命を受けて迎えに来ていた・・・その豪華絢爛 万古に例を見ない見事さである」

(大阪の感想)
「三神山の金闕銀台とは、まことこの地のことであろう」
「人家が塀や軒をつらね、その賑わいの程は我が国の錘絽(ソウルの繁華街)の万倍も上である」
「我が国の都城の内は実際には一里に及ばない・・・(大阪は)ほぼ十里と言われる土地は全て利用され・・・」
「北京を見たという訳官が一行に加わっているが、かの中原の壮麗さもこの地には及ばないという」

(淀城の水汲み水車の感想)
「その仕組みの巧妙さ見習って作りたいくらいだ」
※歴代の使節がその後も見物したけど、ウリナラでは作れなかったニダ・・・

(京都にて)
「人々の富める様は大阪には及ばないが都の西から東までの距離は三里に及ぶという」
「惜しんで余りあることは この豊かな金城湯池が倭人の所有するところとなり 帝だ皇だと称し、子々孫々に伝えられていることである。この犬にも等しい輩を皆ことごとく掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし、朝鮮王の徳をもって礼節の国にしたいものだ」

(名古屋の感想)
「山川広闊にして人口の多さ、田地の肥沃、家々の贅沢なつくり、遠路随一といえる。中原にも見あたらないであろう。朝鮮の三京も大層立派であるが、この地に比べれば寂しい限りである」

(江戸の感想)
「楼閣屋敷の贅沢な造り、人々の賑わい、男女の華やかさ、城郭の整然たる様、橋や船にいたるまで大阪、西京(京都)より三倍は勝って見える」(引用ここまで)

実は、室町幕府時代から朝鮮から使者は来ていたが、日本の高度な文化や技術を朝鮮が学びに来ていたのである。1429年、日本に来た朴端生は、「日本の農人、水車の設けあり」として、学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、鍍銀(銀メッキ)、造紙(紙漉)、朱紅、軽粉などの製造法を祖国に報告している。日本の貨幣経済の実態や、店舗商業の発展等にも及んだが、その中で技術にまで言及していたのは、渡航前に世宗から「倭の紙、堅籾、造作の法また宜しく伝習すべし」と、日本の技術を導入するように命じられていたからである。水車はその百年以上も前に、「徒然草」(第五十一段)に記されており、当時には農民達の手で取り付けられていたので、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があった。

韓国政府が主張する「朝鮮の進んだ技術や文化を日本に伝えた」のではなく、その逆の「朝鮮人使者が日本に来て、日本の進んだ技術や文化を朝鮮に持ち帰ろうとした」が正しい。朝鮮は日韓併合まで極貧の土人国であり、水車を自力で作ることができなかった。李氏朝鮮時代には、樽や車輪などの木を曲げる技術、針を作る技術、染料を作る技術がなく、両班は染料は中国から輸入したものを使用し、両班の輿は、白丁(奴隷)が肩にかついでいた。貨幣経済も、日韓併合時代になってから運用され、それまでは基本朝鮮では物々交換だった。

こんな土人国家が先進国で日本に文化を教えただと?!寝言は寝て言え!歴史を直視できない韓国人に、未来はない!
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