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2017年06月14日08:59

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責任を取らない日本人

百六人が死に、五百人が怪我をする大事件であるのに、誰も責任を取らない。
運転手のせいにして、組織として責任が取れない。
大問題だ。 こういう姿勢が、日本を戦争で負けに導き、日本を今のダメな社会にした。

https://news.yahoo.co.jp/byline/maedatsunehiko/20170614-00072068/

JR福知山線脱線事故の上告棄却に見る 検察官上訴制度の問題点と求められる制度改革
前田恒彦 | 元特捜部主任検事
6/14(水) 6:00
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(写真:Duits.co/アフロ)
発生から12年を経たJR福知山線の脱線事故。

検察審査会の起訴相当議決を受け、JR西日本の歴代3社長が業務上過失致死傷罪で強制起訴されていたが、6月12日、最高裁は、検察官役を務める指定弁護士の上告を棄却した。

一審・控訴審の無罪判決が確定することとなる。

確かに、被害者や遺族の無念の思いは察するに余りある。

誰も刑事責任をとらないままで終わってしまうという後味の悪さも否めない。

他方で、有罪の立証責任を負う検察側が立証に失敗して無罪となっても、控訴や上告で裁判を引き延ばせば、汚名挽回の機会が与えられ、被告人を手続に縛り続けることもできるという、わが国の刑事司法制度の問題点を如実に示した事案でもある。

そこで今回は、改めてこの事案を振り返り、そうした検察官上訴制度の問題点や求められる制度改革の方向性について触れてみたい。

【捜査公判の経過】

2005年4月25日、兵庫県尼崎市のJR福知山線上で、快速電車が制限時速70キロの急カーブに時速約115キロで進入・脱線し、線路脇のマンションに激突した。

この結果、運転士と乗客106人が死亡し、562人が負傷するという未曽有の大事故が発生した。

明石花火大会歩道橋事故に続き、極めて難易度の高い特殊な過失事案を抱えることとなった神戸地方検察庁では、若手の中で実力見識ともナンバーワンのエース検事を捜査主任に据えて捜査に専従させ、多数の応援検察官を集めた大がかりな共同捜査を行った。

検察も事案の真相を解明し、被害者や遺族の無念の思いを晴らしたいという一心であり、検察官の中には取調べ室でJR西日本関係者を罵倒するなどかなり強引で厳しい取調べを行うものもいた。

ただ、第一に刑事責任を問われるべき運転士が事故と同時に死亡していたため、責任追及の矛先がJR西日本という法人の体質やその幹部らに向かわざるを得なくなり、事故の直接原因を含め、真相解明には多くの困難が伴った。

また、個人責任の追及が大前提となっている刑事手続において法人幹部らを起訴に持ち込むためには、彼らが今回のカーブで大事故発生の危険性を具体的に予見しており、にもかかわらず自動列車停止装置(ATS)の設置といった安全策を講じなかったとの事実を立証しなければならなかったが、これまた困難を極めた。

その結果、神戸地検は、2009年7月、事故当時の安全担当役員だった山崎正夫元社長について、福知山線の線形改良工事前年に函館本線で発生した脱線事故後の社内での発言などを踏まえ、今回のカーブの危険性を認識しており、この時点でATSを設置していれば事故を防げたはずだとの理由で起訴に持ち込んだ。

検察内部ではその起訴ですら消極意見が多々出たほどであり、より証拠の乏しい井手正敬元相談役、南谷昌二郎元会長、垣内剛元顧問ら歴代3社長は不起訴とせざるを得なかった。

その後、検察審査会の2度の起訴相当議決を受け、2010年4月、検察官役の指定弁護士がこの歴代3社長を強制起訴した。

しかし、先行していた山崎元社長の裁判では、証人出廷したJR西日本関係者のうち実に7名が捜査段階における供述を翻し、検察官に言い分を聞いてもらえなかったなどと述べて検察による強引な捜査の実態を明らかにした。

2012年1月、神戸地裁は、山崎元社長の過失を否定し、無罪判決を言い渡した。

最高検察庁の意向により、神戸地検が控訴を見送った結果、そのまま確定するに至った。

基本的な証拠構造が重複していたため、2013年9月に神戸地裁が下した井出元相談役ら歴代3社長に対する判決も、同じく無罪という結果だった。

これに対し、指定弁護士は、真相解明や責任追及に対する遺族らの思いを考慮し、上級審での審理を求めるべきだと判断した上で、大阪高裁に控訴した。

それでも、一審以上の真相解明は進まず、2015年3月、大阪高裁は、神戸地裁の無罪判決を支持し、指定弁護士の控訴を棄却した。

これを不服としてなおも指定弁護士が上告していたが、冒頭で述べたとおり、最高裁も、歴代3社長の過失を否定して上告を棄却した。

最高裁の理屈は、「事故当時、カーブへのATS設置は法的に義務付けられておらず、大半の鉄道事業者は整備していなかった」「現場と同じ半径300メートル以下のカーブはJR西日本管内に2000カ所以上もあり、事故のあったカーブの危険性が特に高いと認識できていたとは認められない」などというものだった。

【検察官の上訴は当然の制度なのか】

このように、わが国では無罪判決に対する検察側の控訴や上告が認められており、あたかもこれこそが刑事司法制度として当然の姿であるかのように捉えている方も多いかもしれない。

しかし、市民を「被告人」として刑事裁判手続に束縛することは、たとえ身柄を拘束しない場合であっても、その者から多大な時間と労力を奪い、肉体的・精神的に過度なストレスを与え、経済的にも大きな負担を強いるものにほかならない。

強大な国家権力を相手に戦い、針の穴を通すような苛酷さで何とか無罪判決を勝ち取った被告人(一審の無罪率は実に1%未満)を国家が再び裁判手続に拘束し、社会的にも経済的にも不安定な状態に置き続けることは、それ自体が新たな人権侵害と言える。

また、慎重な証拠吟味を経ていったん下された「無罪」という判断には、重きを置くべきとも考えられる。

そこで、欧米諸国では、無罪判決に対する検察官控訴が認められない傾向にある。

例えば、アメリカには、「二重の危険(double jeopardy ダブル・ジョパディー)」を禁ずるという原則があり、一度裁判手続に付されて有罪判決を受ける危険にさらされた者に対しては、重ねて有罪判決を受ける危険を与えてはならないとされている。

一審の裁判手続で被告人を一度危険にさらした以上、そこで下された無罪評決が事件の最終判断であり、検察官が控訴してこれを是正することなど許されない、というわけだ。

【わが国の検察官上訴制度】

この点、アメリカの影響を受けたわが国の憲法39条にも、「何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない」との規定がある。

しかし、この規定の趣旨に関する1950年の最高裁判決は、一審から控訴審、上告審までを個々に分断せず、一つの継続的な状態と捉えるというものだった。

この理屈だと、最終的に判決が確定すれば再び同一の犯罪で刑事責任を問えなくなるものの、それこそ一審で無罪判決が出ただけで未確定であれば、検察官が控訴をしてその是正を求めることも許されるし、上級審が下級審の判断を覆すことも可能となる。

被告人の人権よりも裁判の中で真実が明らかとなることの方に重きを置いたシステムと言えよう。

ただ、実際のところ、検察庁では、無罪判決が出た場合でも、軽々に控訴や上告をせず、まず逆転できるであろうと見込んだ事案を厳選した上で、そうした手続に及ぶ傾向が強い。

というのも、無罪判決が出たということは、確かに捜査や証拠に難点が多々あり、簡単にはこれを覆せないという場合も多いし、検察庁としても被告人の様々な負担を少なからず考慮するからだ。

現にそうした判決が出た場合、検察庁内で控訴の是非を検討すべく、地検の担当検察官や幹部らが出席して「控訴審議」と呼ばれる会議が開催され、かつ、高検でも重ねて同様の会議が行われ、事案によっては最高検の指揮を仰いでいるが、その過程でそれこそ数十名もの検察官の英知が結集されることとなる。

その際、現場の検察官に比べると被害者や遺族から遠く、被害者感情や市民感情とは別次元の「証拠」という面を冷徹に見ようとする幹部や上級庁から、捜査公判の手抜かりや証拠上の難点などが厳しく指弾され、およそ不可能と思われるような数多くの補充捜査を指示されるなど、控訴に対して後ろ向きの意見が出されることの方が多い。

今でこそ検察庁は失敗を次の事件に活かそうといった雰囲気となっているようだが、一昔前の控訴審議では、幹部やベテラン検事らが若い公判担当検事らに何かと難癖をつけ、「指導」の名の下に集団で吊し上げを行うというのが実情だった。

これは最高検や高検のベテラン検事らが面倒な仕事を引き受けたがらないとか、勝てる勝負しかしないといった検察独自の風土も影響しているが、他方、強大な検察権力の謙抑的行使という側面も否定できないだろう。

この結果、一審無罪判決に対する検察官控訴は無罪全体の約3割強にとどまる一方、高裁が控訴審で検察の補充立証を広く認める傾向にあることと相まって、厳選された検察官控訴事件の実に約7割で逆転有罪を得ている状況にある。

【強制起訴事件と制度改革の方向性】

ところが、今回の事案は、検察がかなり強引とも言える捜査を遂げたものの、証拠不十分で不起訴とせざるを得なかったにもかかわらず、市民感情に依拠した検察審査会による2度の起訴相当議決を経て、ようやく強制起訴に至ったという特異なケースだ。

このパターンで記憶に新しいのは、控訴審で一審の無罪判決が維持され、検察官役の指定弁護士が上告を断念して確定した小沢一郎代議士の陸山会事件だ。

このほか、JR西日本の歴代3社長と同時期である2010年に強制起訴された沖縄の未公開株を巡る詐欺事件も、一審・控訴審で無罪となり、最高裁が指定弁護士の上告を棄却した。

時効完成に基づく免訴という特殊な判決ではあったが、同様に2010年に明石署の元副署長が強制起訴された明石花火大会歩道橋事故でも、一審・控訴審を経て、最高裁が指定弁護士の上告を棄却し、確定に至っている。

この点、先に述べたとおり、検察庁では極めて多くの人間が控訴や上告の判断に関与するし、中には何かとブレーキをかけようとする者もいる。

しかし、強制起訴事件の場合、検察官役を委ねられた数名の指定弁護士だけで短期間のうちに膨大な記録を再検討して判断を下す必要があるばかりか、いわば「現場の人間」として被害者らと近くなりすぎており、被害者感情や市民感情に引きずられて「前のめり」の判断をしてしまう可能性も否定できない。

他方、被告人サイドに立ってみると、現行の強制起訴事件では、乏しい証拠によって刑事裁判手続に拘束され続け、多大な時間と労力を奪われ、肉体的・精神的ストレスを与えられ、経済的負担を強いられたとしても、無罪判決確定後の実効性のある救済策や名誉回復措置など何ら用意されていない。

それこそ国賠訴訟でも起こそうものなら、新たなバッシングが強く予想され、半ば泣き寝入りするしかない。

一般の事件でも、検察側の控訴や上告を認めるべきか否かについては議論が分かれるところだ。

現に日本弁護士連合会は、無罪判決に対する事実誤認を理由とした検察側の控訴そのものを強く批判してきた。

そこで、強制起訴事件については、もともと証拠も乏しいものであることから、一審限りとし、無罪判決に対する検察官控訴を認めない、といった制度改革が必要ではなかろうか。

また、検察官役を務める指定弁護士も、無罪判決に対する上訴権放棄を率先して行い、刑事司法手続では「引き返す勇気」を持つことも重要であり、そうした運用こそが当たり前だ、という流れを作ったらどうだろうか。

社会が注目し、マスコミも大きく報道するような事件ばかりなので、インパクトも大だろう。(了)
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