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2017年06月12日11:24

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ベトナム旅行と歴史 アメリカの尻拭いの歴史

実は先だって5月に韓国人の知人とベトナム旅行に行ってきました。

そこで、ベトナムの歴史を振り返って見てみるとアメリカという国は結局自分がしたことの尻拭いをずっとすることに成ったのだなという事が良く解ります。

ベトナムというところは戦前、フランスの植民地でした(フランス領インドシナ、現在のベトナム・ラオス・カンボジアにまで及ぶ、 成立期間1887年から1954年)。進駐していた日本軍の為に、途中途絶しかけた植民地支配(日本軍の明号作戦で1945年3月に、仏領インドシナのフランス軍を制圧。ベトナムはフランスからの独立を宣言。バオ・ダイ:保大、ベトナム語: Bảo Đại、1913年10月22日 - 1997年7月30日、阮朝大南国の第13代にして最後の皇帝を擁立し、ベトナム帝国を樹立、今で言うと満州国の様に日本の傀儡政権で真の独立国でないなどと言われるんでしょうが・・・)を再開しようと、戦後フランスは軍を送ります。途中、バオ・ダイ(保大)を今度はフランスが再植民地化の為、担ぎ上げ、フランスの傀儡国家・ベトナム国を成立させたりしますが、対立は収まらず、ホーチミン率いるべトミン軍とフランスの再植民地軍との戦いは続きました。

因みにこの独立戦争に、約600人以上の日本兵もベトナムに残留し、陸軍第34独立混成旅団参謀の井川省少佐を始めとする高級将校から兵卒にいたるまでの多くの志願兵が参加しました。ベトミンに軍事訓練を施したり、作戦指導を行い、ベトナム初の士官学校であるクァンガイ陸軍中学の教官・助教官全員と医務官は日本人でした。

今年、天皇陛下がベトナムに行かれた際会われた、元日本兵の妻という方もこの時に残り、フランスと戦った残留日本兵の奥さんです(テレビニュースによっては残留日本兵がフランスの再植民地軍と戦った事を紹介しないものも有りました、紹介してもさっと紹介するだけで詳細を調べようと興味の起こさせる報道では無かったです)。

こうした中、アメリカ(トルーマン政権)は当初、フランスの植民地主義を批判し、援助に積極的ではありませんでしたが、1949年10月、中華人民共和国が成立するとアジアの国々が影響を受け、次々と共産主義化するのを恐れ(ドミノ理論とよばれました)、ベトナムのフランス軍を全面支援しますが、フランス軍はディエンビエンフーの戦いで敗北。ジュネーヴ休戦協定が成立して和平となり、フランスはインドシナから完全に撤退することとなりました。
しかし、それに替わってアメリカがその空白を埋めるべく、進出。アメリカは和平に反対してジュネーヴ休戦協定に参加せず、1955年には南ベトナムに傀儡政権ベトナム共和国(南ベトナム)を樹立して介入、ホーチミンのベトナム民主共和国(北ベトナム)と敵対させ、和平協定で約束された統一選挙の実施を拒みました。ここから始まるのが、ベトナム戦争・第2次インドシナ戦争です。

こうした大きな流れを見てみると、結局アメリカは共産主義の危険性に気付かず、日本が世界征服を狙っている(ポツダム宣言(6)に書いてあります)などと虚言で、日本に石油禁輸等の圧力をかけ、戦いに追い込み、日本が東亜の防共の為という一面もあって満州国という緩衝地帯を成立させたのを取り除いたために、それこそベトナムの頃アメリカ自身が言い出したドミノ理論そのままに、東アジア・東南アジア・中央アジア・東欧の広範囲に共産主義国を広めてしまい、日本の敗戦4年後に中華人民共和国が建国、5年後に朝鮮戦争で日本の代わりに南下する共産主義と戦う羽目になり、1964年に先制攻撃を受けたとリメンバーパールハーバーの2番煎じ・3番煎じのアメリカの虚偽の謀略事件・トンキン湾事件をでっち上げながら(魚雷攻撃を受けたとしていたが当時北ベトナムは魚雷艇を装備していなかった)、防共の為にと満州国に似た(似ているだけで満州・今の中国東北三省は文化大革命などで中共の経済がボロボロの時でも発展し、満州国時代の列車の方が、中共の時の列車より速い時代があったように、日本は発展基盤を残しましたが、アメリカはもっと長く植民地にしたフィリピンにだってそんな発展する基盤を整えるような事をしていません)、アメリカの傀儡政権を立てながら、20年後の1965年にベトナムに本格介入し、泥沼のベトナム戦争を戦う羽目になったのです。

つまるところアメリカは、満州国を非難の的にしたにもかかわらず、結局防共の為に日本と似たことを行った訳です。フランスに至っては再植民地化の為の傀儡政権を作りましたから理由としてはアメリカ以下です。


東條英機大将は東京裁判での宣誓供述書の中でこう強調していました。
〈多面帝国は第三『インターナショナル』の勢力が東亜に進出し来ることに関しては深き関心を払って来ました。蓋し、共産主義政策の東亜への浸透を防衛するにあらざれば。国内の治安は破壊せられ、東亜の安定を攪乱し、延いては世界平和を脅威するに至るべきことをつとに恐れたからであります。(中略)支那事変に於て中国共産党の活動が日支和平の成立を阻害する重要なる原因の一たるに鑑み、共同防共を事変解決の一条件とせることも、又東亜各独立国家間に於て『防共』を以て共通の重要政策の一としたることも、之はいずれも東亜各国共同して東亜を赤化の危険より救い、且自ら世界赤化の障壁たらんとしたのであります。此等障壁が世界平和のため如何に重要であったかは、第二次大戦終了後此の障壁が崩壊せし二年後の今日の現状が雄弁に之を物語って居ります〉と述べている。
  (渡部昇一 『東条英機 歴史の証言』 〈祥伝社〉)

そしてこの東條大将の言葉通り、共産主義は広まり、多大な死者を出し、伝統文化を破壊し、世界は第二次大戦が終わっても平和には成らなかった訳です(憲法九条の信者が言う戦後七〇年の平和などはアメリカの核の傘の下の日本国内のみの平和です、武装を否定して平和になったわけではない)。

1950年からの朝鮮戦争の途中でマッカーサーは総司令官解任されますが、1951年5月3日から、マッカーサーを証人とした上院の軍事外交共同委員会が開催されました。
この中でマッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」と証言しています。

まさに東京裁判での東條英機大将の見解と相通ずるものを朝鮮戦争を経て、マッカーサーも持つに至った訳です。こうしたツケをアメリカはずっと払う羽目に成り、それは現状でも交渉しにくい、今の核開発・ミサイル問題の北朝鮮及び南沙諸島で着々と軍事基地を造り海洋侵略を試みる中華人民共和国という残りのツケをアメリカはこれからも払うことに成るのだろうと私は思います。日本人はこうした問題の近隣国民として、大きな歴史の流れを認識する必要が有るのです(天皇陛下のベトナム訪問のニュースを見てもマスコミはその責任を果たしていませんが)。





参考:下記 ポツダム宣言(6)の文面

(6) There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.

6.日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである。


参考:下記 日記の元記事


残留元日本兵の家族が両陛下にご接見…実現させた日本人女性
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2017年05月14日 06:03 web女性自身

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web女性自身


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3月2日、ベトナムの首都・ハノイのシェラトンホテル。同国を訪問中だった天皇皇后陛下が接見されたのは、グエン・ティ・スアンさん(92)をはじめとする「残留日本兵」のベトナム人妻とその家族たち16人だった。

太平洋戦争後もベトナムにとどまった約600人の元日本兵は、フランスからの独立をかけた第一次インドネシア戦争に参加。一時は「新ベトナム人」として歓迎されたものの、政情の変化によって’54年以降、次々に帰国を余儀なくされた。とり残され、苦難の歳月を乗り越えてきた残留日本兵の家族たち。歴史に埋もれてきた彼らをこの晴れの日に導いたのは、現地在住の1人の日本人女性だった。

25年前、日本語教師として単身ハノイにやって来た小松みゆきさん(69)である。ふだんはホンダのバイクで町を飛び回っている彼女だが、この日は白いブラウスにハイヒール。緊張した面持ちで、両陛下に16人を一人ひとり丁寧に紹介していた。

「彼らの存在は“隠し事”のようになっていたんです。帰国した元日本兵は黙っていたし、残った家族もしゃべらない。ずっと歴史のなかに封印されていたんですね」(小松さん)

家族たちを捜し出し、その封印をといたのは小松さんだった。彼女はベトナム在留邦人の最古参の1人であり、最年長の女性。現在、ベトナムの国際放送「VOV(ベトナムの声放送局)」の日本語課に所属し、シニアアドバイザーの肩書で活躍している。

「私はスアンさんのことを、1人の女性として尊敬しているんです。それは、自分の母親に対しても同じ。大変な苦労を黙々と耐えて生きてきた“先輩”たちのおかげで“後輩”の私は好きなことをやって、こんなところまで来られているんだから」(小松さん)

一面に広がる水田と、大通りを横切る水牛。’92年9月2日。ハノイにやって来た小松さんを迎えたのは、のどかな田園風景だった。一方、ドイモイ(刷新政策)が始まったベトナムでは、経済が開放され、成長の波に乗ろうと人びとは外国語を学び始め、日本語ブームもあった。気がつけば約15年もの間、小松さんはハノイで日本語教師を続けた。生徒は延べ数千人に及ぶ。

「そんななかに、いたんです。ソン君という40歳前後の男性でした。『日本人のお父さんと会ったとき、日本語で話をしたい』と。そのときは、どうして彼の父親が日本人なの?って、さっぱりわけがわからなかった」(小松さん)

好奇心に駆られて調べていくうちに、ベトナムの独立戦争に身を投じた元日本兵たちの存在を知ったのである。

「最初は、人助けというよりも、近代史に埋もれていた何かを発掘したような、そんな気持ちだったんです。いつかすごいノンフィクションが書けるかも、というような」(小松さん)

日本とベトナムの近代史を学び直すところからはじめ、数年後には残留日本兵の妻や家族、数十人の存在を知るまでになった。とはいえ、当時のベトナムでは、外国人が地方の個人宅を訪ねるだけでも事前申請が必要であり、長く日本と国交のなかった社会主義国での調査は難航を極めた。小松さんは、家族たちの記憶をもとに、帰国者の名簿をしらみつぶしに調べた。

「その日のことはよく覚えているよ。そりゃうれしかった」(スアンさん)

小松さんが、初めてスアンさんを訪ねたのは、10年以上前になる。元日本兵の子どもたちの情報を集めるなかで、「奥さんが健在の家もある」と教えられ、すぐに会いに来たのだ。スアンさんと、上等兵だった夫との出会いは、’45年の太平洋戦争が終わる4カ月前だという。スアンさんが働いていた軍人クラブに彼が買い物にやって来て、それからわずか数カ月後に結婚した。

「彼はとても優しい人で、けっして怒らなかった。夫婦げんかも一度もなかったよ」(スアンさん)

ところが、'54年9月。夫は「出張に行く」と告げたきり、帰ってこなかったのである。暮らしは困窮し、食べるものもない貧しさのなか、スアンさんは女手一つで3人の子どもたちを育て上げた。当時の苦労を尋ねても、「もう時代が変わったから」とにっこりほほ笑むだけだ。

「スアンさんのすごいのはね、離ればなれになって60年以上にもなるのに、夫を愛しつづけていることなんです」(小松さん)

どんなに生活が苦しくても、彼以外の男性は考えられないと再婚せず、いまでも愛用の枕には夫の軍服が巻いてある。

「それを夫だと思って、毎晩抱いて寝てるって。私、涙が出てくるんだけどね」(小松さん)

'04年、小松さんはスアンさんをはじめ3人の元日本兵の妻のレポートを、国立民族博物館友の会の『季刊民族学』に寄稿した。これがNHKのディレクターの目にとまり、BSドキュメンタリーになった。そしてこの番組が縁で、放送の翌年、スアンさんの夫が日本の妻や娘、孫たちに伴われ、会いにきたのである。

「本当にいいご家族でした。スアンさんたら、自分より10歳年下の奥さんのこと、『私より若いんだよ』なんて焼きもち焼いてかわいらしいんです。スアンさんの子どもたちは、60歳近い大人なのに、『お父さん、お父さん』ってズーッと触ってるの。『50年分触りたいんだ』って」(小松さん)

3月2日、シェラトンホテルで両陛下との接見を待つ家族たちは緊張でコチコチになっていた。家族たちを両陛下に紹介するのは、小松さんの役目だった。あの日を振り返るだけで、小松さんのテンションが上がる。

「もうね、両陛下は優しい、醸し出すものがすごいんですよね。スアンさんは年齢も年齢なのでいすに腰かけていた。ただでさえ小柄だから、皇后陛下がいくらかがんでも、やっぱりね、上からになっちゃう。そうしたら皇后陛下、しゃがみこまれたんですよ!」(小松さん)

予定されていた接見時間は15分だったが、両陛下が熱心に家族たちの話に耳を傾け、彼らも皆、涙ながらに語った結果、倍以上の34分が経過していた。

「ようやく無事に終わってホッとしたときですよ。天皇陛下が私のほうを見てくださって、『こちらは長いんですか?』って。んもう、すっごいびっくりした。私にもお声をかけてくださるの!?って。『ご苦労さまでしたね。これからも日本とベトナムのために頑張ってください』と、労をねぎらってくださったんです。ベトナムで頑張ってきたおかげで両陛下と会えるなんて。本当によかった……」(小松さん)


web女性自身
沖縄・八重瀬の壕から全身骨…日本兵か?発見者「遺族へ返したい」殺されないため素性隠した過去も…「サハリンの日本人」の戦後70年バンコク在住81歳日本人女性の“波瀾万丈”海外生活

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残留元日本兵の家族が両陛下にご接見…実現させた日本人女性
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=145&from=diary&id=4571082
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