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2017年05月29日11:40

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5/27〜5/28一等三角点研究会・春季例会<猿投山>

全国組織である、一等三角点研究会の春季例会は、愛知県にある猿投山△629mだった。
一等三角点研究会は、現在の会員数は119名で、今西錦司氏を顧問に、昭和48年に創設した会
を再編した会で、一等三角点に関する歴史的意義を研究している。ナカニシヤ出版から「登山案内・一等三角点全国ガイド」を発行している。

猿投山は、三河と尾張の国境にあり、今では豊田市と瀬戸市にまたがっている。
農耕に欠くことのできない猿投川と広沢川の東西両流の源となっていて、二つの川の合流した矢作の流れを利用し、開拓居住した古代の人々が猿投山の神霊が鎮まると信じた、山嶽信仰と大碓命(おおうすのみこと)の史蹟により、神社が創立された。

前日の5/27に、猿投温泉「金泉閣」に全員が集合して、明日に備える。
5/28朝、宿を8時出発。天気は快晴。一等三角点研究会の例会は、いつもあまり天気に恵まれ
ないのだが、今回は最高の天気に恵まれた。
Aコースは、猿投神社からスタート。Bコースは、東の宮からのスタートとなった。御門杉に8:40。東の宮に10:05。一等三角点のある頂上には10:30。眺めよく、御嶽・中央アルプス・南アルプスの山々が見渡せた。記念撮影の後、東の宮で昼食。猿投神社に13:20戻ってきた。

宿に入る前に「トヨタ博物館」と「長久手古戦場」を見学してきた。トヨタ博物館は長久手市にあり、トヨタ自動車創立50周年を記念し、1989年に創立した。本館・新館を合わせて、世界の車約160台と各時代の生活文化資料約2000点が展示してあった。

長久手古戦場を見てきた。天正12(1584)年に、豊臣秀吉と徳川家康が激烈な戦いを繰り広げた主戦場跡地で、国の史跡に指定されている。
信長の二男・信雄(のぶかつ)は、当初は秀吉と友好関係をもったものの、信孝が秀吉に岐阜城を追われ、自害した後からは警戒心を持つようになった。
信長の後継者の立場を、事実上確立した秀吉に対し、不満を感じる信雄は織田家の同盟者であった、徳川家康に助けを求めた。天正12年3月6日、信雄が秀吉に内通していた3人の家老を殺害
したことで、「小牧・長久手の戦い」は始まった。

この戦いで信雄は、伊勢国の大半と伊賀国を秀吉にわたし、事実上の敗北。秀吉は、旧信長家臣団を自身に臣従させ、支配体制を再編成、翌年には関白となり、全国統一を押し進めていく。家康は、結果的に秀吉に臣従したが、その実力を全国の大名に認識させ、秀吉政権下でも別格の地位を保ち、徳川政権樹立の足がかりを固めていった。

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