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2017年05月26日16:38

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退任のフジ亀山社長「視聴率回復できず申し訳ない」

退任のフジ亀山社長「視聴率回復できず申し訳ない」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=8&from=diary&id=4591025

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6月に退任するフジテレビ亀山千広社長(60)が26日、最後の定例会見を行った。「視聴率の回復を託されながら、道筋を作れないまま業績が落ち込み、責任を痛感している」とあいさつした。

 亀山氏は「制作能力が他社に比べて劣っているのではなく、私がその能力を100%発揮させる環境を作れなかった。申し訳なく、残念でならない」。また「まだ改革の道なかば。能力が集結すれば必ずや上昇気流に乗れる。次の体制に期待したい」。やり残したことを聞かれると「視聴率の回復」とした。

 亀山氏はドラマ「ロングバケーション」「踊る大捜査線」シリーズなどを手掛けた敏腕プロデューサーで、13年6月に社長に就任。視聴率低迷から脱却するべく手腕が期待され、長寿番組「笑っていいとも!」の打ち切りや、平日15時間の生放送編成など大きな改革を行ったが、昨年は年間視聴率で民放4位に沈むなど成果が出ず、任期4年での退任となった。

 後任はBSフジ社長の宮内正喜氏(73)が就任する。
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フジテレビはどういう放送局か、と思い返してみる。バブルの頃にはこの世の春を謳歌したものだ。では日本中を圧倒した名作は何であったろうかと思い返してみる。

その代表はトレンディードラマと言われるものだろう。あれは時代的に「流行」を知らしめた。流行に敏感であることが洒落ているという価値観を打ち出した。このような人間の動向は、極めて経済の影響を強く受けている。

日本の経済については、戦後だけでも、高度成長、オイルショック、バブル、バブル崩壊という乱高下と、世間の風潮は密接だろうと思われる。しかし、どのような世代であっても、おしゃれを追いかけるというコンテキストは変わらない。ならば、変わるのはその時代のコンテンツのみという事になる。

ケミカルウォッシュがしゃれていた時代がある。だが、それが常にしゃれているとは限らない。それどころか、嘲笑の的にさえなる。MCハマーを今聞いたら笑われるのと同じだ、この風潮が失せるのにもう暫く必要だろうか。ダサさの象徴だったものが、ちょっとした手直しをする事で新しく生まれ変わる。

という事でフジテレビはこの手直しに失敗したと結論付けてよいだろう。もともと、フジテレビの最高潮、企業風土というものは、おしゃれとか高みとか、流行とか、そういうものである。おしゃれじゃなければテレビじゃない、が彼らの価値観であろう。フジテレビの極致は軟派であろう。もちろん、今更、硬派というものがない以上、軟派にも価値はないはずである。

女子アナで人気を取ったのも、とんねるずでお笑いの一時代を築いたのも、すでに時代遅れである。だが、そこにあったものをもう少し詳細に見てみれば、彼らが与えようとしたものが優越感であったように見える。我々の仲間になることがそのままステータスになる、というような番組作りであった。

今から見れば、不細工な女子アナなのに当時にはステータスがあった。その流れは風俗嬢が次第に綺麗になっていったのとリンクしている。それまでのレベルを圧倒していた戦力を投入した所に彼らの英断があった。それを支えたのは、時代が変わりつつある、これまでとは違う番組作りを、であったろうか、彼らの鋭敏な嗅覚である。それが偶々時代とマッチしただけのことだ。

この「偶々」を成功体験としたところにフジテレビの悲劇がある。その成功体験を再生産しようと努めたいたところがフジテレビの喜劇であろう。時代が潮目に彼らの価値観は取り残されてしまった。

フジテレビがそれまで立脚していたものは、新しい階級だったのだと思う。業界人であるとか、業界用語といった自分たちとの差別化であり、そこに憧れという幻想を作り出していった。誰かの嫉妬を浴びることが誉れであった。今の社会では既にそうやって遊ぶ猶予はない。貧困が重要な課題になっているときに、馬鹿な女子アナの話にどうやって癒されればいいというのか。

彼らの強みは癒しでもなければ、理知でもない。そこを見誤れば彼ららしい番組など作れもしないだろう。

フジテレビのピークはカノッサの屈辱だと思う。だが、いまあの番組を見直しても、決して面白いとは思わない。のみならずその嫌味さみたいなものが臭くて見るに堪えられないに違いない。彼らはただパロディだっただけである。

彼らのパロディが停滞したのは茶化す本家がなくなったからだろう。パロディは本体が大きいほど効果的である。バルブは茶化すには丁度良かったのである。

バブルの崩壊とともに様々なものが次第に分解されてゆく。小さな集合が互いに対立したり、結びついたりする社会になってゆく。そのような構造の中でパロディをする対象も失ってゆく。

彼らは今や自分たち自身で何が面白いかが分かっていないのだと思われる。若い人たちが深夜番組に工夫を凝らしているし、人狼〜嘘つきは誰だ?など考え抜かれた番組だったと思う。時代が変われば大流行してもおかしくなかった。だが、これを面白いとは思わなかった。ゲームは面白い。だが、それを番組というパッケージにしたときには詰まらなかった。

なぜだろう?彼らの良さが時代と合致していない。これだけ模索してもダメなのだから、時代に合うように変わるよりも、ただ耐え忍び、時代がマッチするのを待つしかないのではないか。片隅でひっそりと生きるか、滅びてゆくか、まったく新しいものに生まれ変わるか。いずれにしても堂々としてゆきたいものである。

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