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2017年05月24日22:21

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『国連』自体ではなく、『「国連」機関』内部で「コミンテルン」の“亡霊”みたいな「国際社会主義者」が暗躍する!

■菅氏「背景あって出されたのでは」 「共謀罪」懸念書簡
(朝日新聞デジタル - 05月24日 14:54)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4587343

〔鍋山貞親「共産党をたたく12章」有朋社〕
大正11(1922)年共産党創立.
「最初の綱領の執筆者は,ニコライ・ブハーリンであった.彼はその当時,国際共産党本部(コミンテルン)の,理論的指導者であったのだ.そして,日本に共産党ができる時,党の綱領は,かくのごときものであるべきだと,自らが執筆した草案を提示したのである.それを日本の共産党は無修正で受け入れたのである」
昭和2年(1927)ブハーリンの原案で「君主制の廃止」(二七年テーゼ)綱領採択.
「私はその当時,モスクワでの審議に参加した一人である.」鍋山氏は天皇制廃止は躊躇.「その時はそれで,一応会議が打ち切られたのだけれど,コミンテルンの建物を出て,宿舎のホテルに帰ろうとすると,ブハーリンが追いかけて来て,一緒に,キミのホテルに行こうと言うのだ.同伴してホテルへ帰る途中でも,ブハーリンは,一語一語に,念を押しながら,私を説得するのである.コンミニストたるキミ自身が,君主制廃止に,なかなか同じまいと思われる国民感情などに屈服するのはおかしいではないか,国民感情なんて,いい加減なものなのだ,わが国でも,帝政が倒されるまでは,人民の大多数が,皇帝を敬愛していた.しかしひとたび,帝政が倒されると,そんな国民感情は,吹っ飛んでしまったんだ,キミは,自覚したコンミニストなんだぜ,などと懇切に説いてやまない.あげくのはて,とうとう私の部屋にまで入り込み,椅子にまたがりながらの談議である.とうとう私は,ブハーリンの善良さと根気に負けたのだ」
「かくして,またもや五年経った昭和七年に,第三回目の綱領ともいうべき三二年テーゼが出ることになった.これは文字通り,モスクワからの,一方的押しつけである.しかもその綱領によって,共産党の天皇制打倒の構えは,極端にまで激しくなったのだ.なぜなら,その綱領は,日本における革命への戦いが,まず天皇打倒に集中されねばならぬことを,指示したからである.またその綱領によって,スターリンなどが,外国の共産党を目して,ソ連の対外政策的道具の程度にすぎぬごとく,見ていることも,はっきりしたのだ」
「当時ソ連において,ブハーリンはすでに,失脚せしめられていた.スターリンの独裁的覇権が,いよいよ,ゆるぎなきものと,なりつつあったのである.そのスターリンのお声がかりで,あたかも,一気呵成に作られたかのごとき,三二年テーゼができ」採択された.

[ゾルゲの告白]
「其の目的の積極的側面はソ聯社会主義国家を擁護せんとしたことであり,消極的側面は,ソ聯をして凡ゆる反ソ的な政治上の発展又は軍事上の攻撃を回避せしめることにより,ソ聯を防衛せんとしたことであります.私達が共産主義の立場に立つてソ聯社会主義国家を擁護防衛することに依り,世界革命に対して間接の寄与貢献を為して来たことは既に申上げたとほりでありますが,私達が共産主義者としてソ聯の指導部たるソ聯共産党を支持し,コミンテルンの標榜する世界革命の綱領を支持することは申す迄もないことであります」(「現代史資料」)
〔山岡貞次郎「支那事変」原書房〕
「すなはち,大正十二年二月四日,日本共産党が創立されるのは,日本人独自の立場からではない.ソ聯戦略の一環を形成し,その指導をうけ,ソ聯に服属するコミンテルン日本支部としてであつた.デビツド・ダーリン氏によると」(「ソビエト・ロシアと極東」エール大学出版)
「一九二八年(昭和三年),国際共産主義第四回大会において,全共産党の第一任務と決定された『ソビエト同盟の擁護』を,日本では文字どほり解釈してゐた.一九三二年(昭和七年),第十二回コミンテルン執行委員会において,日本代表 岡野」(故野○参○氏の変名)「は,“われわれの社会主義者の祖国”に対する危機に直面し,その危機に立ち向かふ任務がいかに偉大であるかを,日本共産党は知ってゐる”と述べ,また一九三三年,おなじく第十三回の会合において岡野は“われわれは,ソビエト支那に味方するだけでなく,ソ聯の平和政策を宣布し,ソ聯の社会主義建設といふ壮大なる業績をも宣伝しなければならぬ”と忠誠こめて誓つてゐる(Loyally pleaded)」
「そしてこの前後,日本共産党に下されたモスクワの指令ともいふべき数おほくのテーゼの冒頭には,かならずといつてよいほど「天皇制廃止」の掲揚を強制されてをり」(市瀬正幸氏著「日本共産党」元々社)「同時にモスクワ共産大学にて教育された日本共産党幹部が,つぎつぎに日本国内に送りこまれ,日本国内の混乱と破壊とに使役される」
「蘆溝橋事件の発火は,米,英,ソに支へられた蒋介石の意図にもとづいて,直接には第二十九軍麾下の部隊が起こした.そして事態を,このやうに展開させた原動力の第一は,ソ聯の多年にわたる東亜侵略への野望である.しかもそれは,レーニン,スターリンとひきつづいて日本をアジアにおける当面最大の敵」に指定した。

〔「スレッド」Vol.2(2007.10)〕
「中ソという“上部団体”から武装化命令を下されて慌てた共産党は,51年2月の第4回全国協議会」(「四全協」)で軍事基地の拠点の麻痺・粉砕」
「意識的な中核自衛隊の結集」「警察予備隊に対する工作」などの武力中心による闘争方針が決定された」
「8月には徳田球一ら党幹部がソ連へ呼び出され,ダメ押しにスターリンから直筆の草案を押し付けられる.
「暴力革命を率先して行え」というこの草案は,「五一年綱領」として党の正式方針となった.こうして「軍事闘争」という名のもとに武装蜂起が活発化.日本の治安は大混乱に陥っていく」
「まず,武力闘争の実行部隊として「中核自衛隊」が組織され,時限爆弾や火炎瓶,火炎手榴弾などの製造法が『球根栽培法』や『ビタミン療法』『栄養分析表』などの暗号化されたタイトルで配布された.資金調達は「敵から奪う」という戦略が,党発行の『中核自衛隊の組織と戦術』に正規の方針として記され,実際に軍資金を調達するための略奪事件が全国で頻発した」
「また,敵の武装力の基幹である警察力に対する闘争」を積極的に行うという方針に従い,警察官の殺害や警察署襲撃というテロ行為も行われた」
「最初の事件は51年12月27日,練馬警察署の伊藤巡査殺害事件である」
「翌月の52年1月22日,札幌中央警察署の白鳥警部が自転車で帰宅途中,後ろから自転車に乗って来た男にピストルで撃たれて死亡した」
伊藤巡査殺害事件は鉄パイプで撲殺されて実弾入り拳銃も奪われる事件.「同巡査は事件の1年程前に,小田原製紙工場の共産党系労働組合員を逮捕したことで恨みを買っており,さらに日頃から共産党員により中傷ビラを貼られるなどの嫌がらせを受けていた.状況から共産党の犯行の可能性が高いとみて,警視庁警備課も協力するという異例の合同捜査を行った.この結果,共産党員14人を強盗致死罪で逮捕した」
白鳥警部も左翼,共産党の調査を担当した.
山梨県では52年7月31日,曙村の民家に6人組の強盗が乱入.家人に重傷を負わせ,米一俵を奪って山中に逃走した.曙村は共産勢力が強い「赤い村」として知られており,同月初旬には共産党の山村工作隊員約10名が「日共の活動を妨害した」として吊るし上げを行っていた」
「この「武力闘争」は朝鮮戦争の後方撹乱が目的だったため,期間は51年〜53年に集中」しており「中核自衛隊」と称した.
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