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2017年05月04日17:50

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三浦瑠麗「改憲運動に欠けているもの」批判

三浦瑠麗
改憲運動に欠けているもの
http://www.huffingtonpost.jp/lully-miura/the-lack-of-the-constitution-change-movement_b_16408310.html

なかなかのたわごとだったので批判しておこうと思う。

三浦氏は9条をめぐる解釈論が「神学論争」であると断定し、9条2項を削除することでまっとうな安全保障論議ができるという認識に立つ。

まず前者の神学論争という議論からいこう。何を持って神学論争と呼ぶのか、定義が明示されていないが、一般的には「結論を得がたい議論」のことを神学論争と呼ぶ。9条をめぐる解釈論議は確かに「結論を得がたい議論」ではある。特に最高裁が判断を示さないせいで、最終判定者が不在になりますます結論は得がたい。

しかし「結論を得がたい」神学論争化した混迷が9条2項削除によって解消するかといえばそんなことはない。

三浦氏は大した論証もせずに、9条2項削除によって「まっとうな安全保障論議を根付かせること」が出来るかのように語る。しかし、安全保障論議とて神学論争化は起こすし、結論を得がたいという意味では常に神学論争なのである。

「軍事費のどの部分を重点的に増加させるべきか。ミサイル防衛なのか、敵基地攻撃能力なのか、それよりも、既存部隊の人員増や運用能力の強化が優先されるべきか」という三浦氏の提出した論点は全て議論百出で、どんな結論を出したとてそれで論争が終わるようなものではない。

むしろ自衛隊の合憲性の問題の方が、最高裁のジャッジという形で終わらせられるという意味で、よほど神学論争とは遠いのである。

いずれにせよ重要・重大な論点は9条に限らず常に「結論を得がたい」のであって、それを「神学論争」だなどと切って捨てるような人間は初めから議論に加わらなければいいのである。安全保障論議は神学論争であることから免れえないのだ。

そもそも9条と矛盾を起こさない形での安全保障を考えることとて、「まっとうな安全保障論議」なのである。三浦氏がそれを初めから度外視しているのは、要するにそのような9条の枠を守った形での安全保障の有り様が氏の好みに合わないだけである。察するに軍備強化路線を取りにくいためではあるまいか。

おそらく三浦氏は安全保障論議において、国防上取りうる選択肢に制約をかけるような憲法条文が気に入らないのだろう。そのような外部環境の有り様と無関係に課される包括的制約は三浦氏にとっては「まっとう」ではないのである。

だが9条はまさにこういう人間がいつの時代にも存在するからこそ、いかに外部環境が変化しても、踏み越えてはならない一線を守らせるために生まれてきたといっても過言ではない。つまり三浦氏は、極めて逆説的に9条の有用性を証明してしまっているのである。

9条が絡む議論は神学論争、安全保障論議は生産性のある議論という決めつけによって論を立て、9条を前提にした安全保障論議は「まっとう」ではないとして初めから放棄する。安全保障の専門家を名乗る人種には、この手の軍事力強化路線=現実的という独善的断定がしばしば見受けられるので読み手は注意が必要だ。

氏は「「戦力は保持しない」し、「交戦権は認めない」けれど、自衛隊は持っている」という「統治のごまかし」を9条2項削除によって排するべきと主張する。だが自衛隊合憲論というのは、屈折した論理ではあるが一応論理的に成立するものなので、「ごまかし」ていないという主張も成り立つのだ(私がそのロジックに賛成というわけではない)。

それは確かに中学生にはわかりにくい議論かもしれないが、噛み砕いて説明すれば中学生でも分かる。法律議論というのは大変ロジカルなので、手間さえ惜しまなければ子供でもわかるのである。氏は「中学生に説明できない」と決めつけているようだが、案外そんなことはない。

なにより三浦氏が主張する「9条2項削除」による自衛隊合憲化という路線の方が、中学生に説明するのは難しい。

氏は暗黙のうちに自衛隊違憲論を採用しているようだが、その場合適正な法的手続きをとるなら、まず違憲な自衛隊を解消、しかるのち憲法改正、その上で国軍創設という流れでなければならない。違憲な組織を憲法改正によって合憲にするというのは、手続き的には極めて問題のある対応だ。

それこそ「中学生に説明できないようではダメ」なレベルでダメである。

根本的にこの人は遵法精神が欠落しているようで、不都合なルールは守りやすいように変えてしまえばいいという立論をする。今あるルールの範疇で、どう対処するかについては「神学論争」というレッテルを貼って拒否してしまうのである。個人的にはこういう振る舞いを中学生に教え込むのは反対だ。

氏は「9条2項削除」によって自衛隊合憲化を果たした後、国民が向き合うべき問題を、「本質的には、国民主権の日本が、軍隊という異質な存在を抱えながら、どのように生きていくかという問いと向き合うということ」と総括する。

しかしながら、これまで日本で蓄積されてきた、9条との相克を孕んだ安全保障論議は、氏が主張する「国民主権の日本が、軍隊という異質な存在を抱えながら、どのように生きていくかという問いと向き合うということ」そのものである。何が不満なのだろうか。

氏が指摘するように「すべての成熟した民主国家が抱える安全保障とシビリアンコントロールをめぐるジレンマであり、避けては通れないもの」だと分かっているからこそ、激烈な「神学論争」が戦わされてきたのである。

自分の好む対処法が採用できない時には「神学論争」で、改憲して自分好みの議論ができるようにすることが「歴史の蓄積と、政治の知恵と、国民の良識の中から解を紡いで」いくことというのでは、論理の体をなしていない。ただの好き嫌いの表明でしかない。

個人の好き嫌いに立脚した議論こそ「神学論争」の極致である。
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