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2017年04月14日18:46

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中山義秀、永井龍男とうさぎ

関東以南(高地や南西諸島を除く)ではそろそろ桜も終わりだろう。春の日差し、俺は憂鬱。
うさんぽしつつ相変わらず本ばかり読んでいる。
小林秀雄、大岡昇平、数十年ぶりに安部公房・・・好きな作家はたくさんあるが、短編といえば邦楽(!)では永井龍男。こと『秋』は絶品。

永井さんの随筆集を読んでいたら、『中山義秀(ぎしゅう)を偲ぶ』といふのがあった(初出:昭和44年『新潮』)。
昭和41年6月、新潮誌上で永井龍男は中山義秀と対談。癌の手術を終えた中山さんは、こう述懐する。

「人生を老年まで永らえると、どうしても生活が一種の惰性になるからね。それがこういう病気をした後、惰性では済まないという気持ちが出てくるのだ。新しく生まれ変わるというのは大袈裟だが、いままでの生き方とは違うと思う。癌という病菌は醜いものだ。愛嬌のない病気だよ。だから僕は癌の美学というものを書いてみようかと思う」
「聖書のルカ伝(十六章)ヨハネ伝(十一章)にラザロという貧しい男が出てくるだろう。腫物に苦しめられて、貧しく死んでしまう。三日ぐらいたって姉さんがキリストに嘆くのだ。そこでキリストが墓のところに行くと、死んで四日も過ぎたのが生き返ってくる。ザイツェフというロシアの作家が、ラザロを『静かな曙』という短編に書いているのだ。ラザロは生き返ると、岩の多い荒野、いまのイスラエルの辺りだが、そこにいつも座って落日を見ている」
「一度死を経験した人間は、肉体は蘇ったけれど精神までは蘇らないという話なんだ。若いときにそれを翻訳で読んだのを妙に覚えているね。僕は近ごろ一人で庭にぼんやり一時間くらい腰掛けている。それはラザロという意味じゃないよ。精神は蘇らないという意味とは違って、精神が変わってくることは確かだね。もし具体的に云えば病前と病後とではそのくらいの違いがあるのじゃないかな。そして世の中の現象というものが気にかからなくなる」

述懐であると同時に、これは紛うことなき「体験記」・認識だろう。肉体的にはもちろん、精神的にも大きな体験をした者が認識一変するのをよく聞く。たとえば宇宙から地球を見た多くの飛行士は、神の実在を証言している。
”大変事”でなくとも生きている限り人は、徐々にその認識を変える。「亀の甲より年の功」などというのも、事象に対する処し方の変化を指すと同時に、認識そのものが老成といった、そんなことを指すのではないか。
とまれラザロの、中山義秀のありようは興をそそる。癌の美学、延々座ったまま眺める夕陽・・・。
*聖書つながりで”最後の夕焼け”という映画がある。別途書きます。

永井龍男は記す。文藝春秋主催の旅で中山義秀、小林秀雄、瀧井孝作、島木健作、今日出海(元文化庁長官。今東光の兄)、中野実らと奈良京都に遊んだ昭和14年。上記より30年の前。
「当時の中山君は、身辺に心を労することが多かったらしく、奈良見物中から絶えず酒気を帯びていたようで、団体行動には一つ一つ外れ、道に古道具屋を見付ければ必ず一行を離れて垢まみれの店へ入って行った。誰かしらが彼のために待ち、物議をかもしたものだが、当人はやがてがらくたをなにかしら包みにして、飄然と表へ出てきた」
(中略)
「京都での二晩目、遊びにかけては練達の中野実が、さまざまに趣向を凝らし、一座数人がわれを忘れた時分に、突然中山君が今夜の夜行で帰京するといい出す。せっかく今日まで一しょに暮したのだから、明日の汽車で共に帰ろうと一同説得に努めたが、一向に聞き入れない。興に乗るにつれ遊び仲間が欠ける気分は淋しいものだから、引き止める方も総がかりであったが、中山君は例のがらくた包みを小脇に立ち上がる。
『ええい、勝手にしやがれ。もう止めるな』
またいつもの癖が出たと、私達が怒号をあびせかける。
『ごめんよ、な、ごめんよ』
義秀は腰を折って謝り、一同の顔を見まわして去りかける。その時誰が歌い出したか、急に『蛍の光』が聞こえ、そのまま合唱になる。
眼に涙をにじませた義秀が、長身の腰を折り、ひなびた手付きで、テレかくしの即興踊りになり、手を振り足を忍ばせて座敷を大きく一まわりすると、廊下へ出て行った。
みんなもう一度顔を現わすに違いないと当てにしていたが、われわれを置き去りに、ふたたび姿を見せなかった」

実は中山さん、奥さんを亡くして以来遺児を実家(いまの福島県白河市)に預け東京で独りアパート暮らし。その娘さんが上京するため京都土産の財布を携え帰京しなければならなかったのだ。

「中山君は当時三十九歳、私は三十五歳であった。一年前に、すでに芥川賞を受賞(*)しているし、作家としての地位はさだまっていたが、心を労する事柄が身辺に絶えなかったのか」
「中山君は文学上の意見にしても、交友関係のことにしても、また日常の瑣事にいたるまで、いったんかくかくと信じてしまうと梃子でも動かず、それにしたがって強引に行為することがあった。(中略)私が”頑な義秀”と云ったのはそれだが、その夜の彼に父親の血があたたかくたぎっていたのを私は知らなかった」
*『厚物咲』で1938(昭和13)年、第七回芥川賞を受賞。

朗かに病から復したと見えた中山義秀を永井龍男は、悔恨とともに斯く偲ぶ。
葛西善三らとともに読みたく思っていた自分は、この『へっぽこ先生その他』(講談社文芸文庫)を一読するとただちに中山さんの著書を注文。いまは明智光秀から材をとった『咲庵』を味わっている。
<余談>
中山義秀は歴史小説家ではないけれど、司馬遼太郎などの”専門歴史小説家”より、彼や松本清張、坂口安吾らの歴史物のほうが全くもって奥深いと感じるのは自分だけだろうか。司馬氏のは面白いといえば面白く、”入り口”には良いかもしれない。例の『新しい歴史教科書を作る会』の面々が<司馬史観>と銘うち称揚したのは彼のフィクション(竜馬にせよ何にせよ、あれらはフィクションです)が”分析より人間にスポットを当てて”いたから(つまり「物語」ですな)。にも関わらず、存外<人間>に対する洞察が浅いのだよ、これが。

以上、鬱々ながら、しみじみ。中山義秀と永井龍男に思いを馳せつ制作したは、マイウサギ動画。ヅカOGんとこのマルチーズ「ななた♪」や、マイ贔屓んちの保護チワワ・プリンちゃんも出てくるよー。
ロケ地はすべて宝塚。そして曲は、土屋公平さん(元Street Sliders)が3.11の後に書き演じた、
◆千の祈りより羽ばたきひとつ



ミサイル飛んできませんように。
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