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2017年03月31日22:55

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真田信綱

 昨年、真田丸で真田人気に火が付きました。真田家3代と言われていますが、正確には4代です。真田信綱は1567年に父、幸綱から家督を受け継ぎ、75年に設楽原の合戦で討ち死にするまで真田家の当主でした。非常に地味ではあるが、武田24将の一人でもあり、武勇の誉れが非常に高く、武田信玄の晩年の戦には信玄とともに参戦をしました。こういう地味でも優れた人が好きな僕としてはたまらない武将です。


 紀州九度山に流された真田信繁&昌幸親子の会話(1985年の真田太平記の昌幸(丹波哲郎)、信繁(草刈正雄)のイメージです)

「今一度、日の目を見たいと思うていたが、もはや叶わぬの」

「何を仰せられる 父上の野望を遂げられるのは、これからではないですか」

「慰めの言葉はいらぬ。儂には判る。されど、残念じゃの。必ず大戦があるというに、参じられぬのが口惜しい限りじゃ」

「そうじゃの。できるならば城に引き付けて謀をするのではなく、亡き兄・源太左衛門尉(信綱)のように、先陣を切って疾駆し、敵を破りたいものじゃ」

「また伯父上の話ですか」

「左様、兄上が設楽原で討ち死にしておらねば、真田の家も変わっていたであろう。かようなみじめな暮らしをせぬでもよかったやもしれぬ」

「野心が多い父上のこと、伯父上とは袂を分かち利の多い博打をするでしょう」

「戯けめ、兄上が生きていれば、左様なことをさせまい。兄上はのう・・・・」
再び昌幸は信綱の話を始める。信繁は最後になるかもしれぬ信綱の話に、耳を傾けた。

信綱の最期。

 「そちは源五郎の許に走り、真田の家を継いで家名を守れと申せ」
側にいた者に伝えた信綱馬首を返し、最後の力を振り絞るように戦った。それはまるで、40年後、大坂の陣で真田家の行く末を兄の信之に頼み、家康の首を狙った信繁のような戦いぶりだった。

左衛門左の憧れ

 獅子奮迅の活躍をした信繁も疲労困憊し、茶臼山のすぐ北安居神社近くに退いて休息しているとき、越前兵の西尾仁左衛門久作に討たれた。

「儂は伯父(信綱)に近づけましたでしょうか」
最期の言葉を漏らし、信繁は46(一般的には49)歳の生涯を閉じた。家康を3里も遁走させた真田左衛門左信繁は、日本一の兵と称賛された。
7日、大阪城は炎上し、翌日、豊臣秀頼は自害して、大坂夏の陣は終了した。(近衛龍春著「真田信綱」)

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