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2017年03月29日07:17

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沖縄渡来系の歴史 前編

沖縄の歴史を調べて多く見かけるのが「「久米三十六姓」が今も沖縄県の中枢にいて売国的行為をしてるじゃないか!!」というブログだ。

たしかに歴代沖縄県知事や那覇市長は久米三十六姓の子孫だが、果たして本当にそうなのだろうか?
源流を探っていきたいと思う。

・中国渡来系はいつ頃来たのか?
沖縄三山時代、中山王国に察度王統という系統の王朝が興る、察度王は当時の中華王朝である明に朝貢を始めた。その彼の息子である武寧の代に明の永楽帝から職能集団を下賜されたのだ。
その職能集団が久米三十六姓の始まりだと言われいる。


察度王系が2代武寧の代で滅ぶと、尚氏の王朝が始まる。国相に明人の懐機を任命、首都を浦添から首里に移設し国際都市として建設される。中国から移り住んできた人たちは久米村という島に住み始めていった。
彼らは中国語で生活し、明の文化を保つ独立した存在だったようだ。そして彼らのネットワークにより南海貿易が可能だった。つまり明の間接支配により海洋貿易国家琉球が誕生したとも考えられる。

1469年、第一尚氏から第二尚氏の時代になると、南海諸国が欧米列強の植民地として徐々に侵略され明の朝貢政策が制限されると琉球の存亡が危うくなっていく、普通の中継貿易国家ならポルトガルの進出で、さらに交易は広がるはずだがそうではなかったようだ。久米村に住んでいた華僑も世代が代わるにつれ琉球化していき技術も失われていったようだ。この時期に琉球王国の一元支配に反抗的だった奄美大島の領主を討伐などして権力基盤の維持を行った。


16〜17世紀になると、日本列島では戦国時代から豊臣政権→徳川政権になり全国支配体制が強化された国際情勢が目まぐるしく変わっていく。「文禄・慶長の役」で日本と明が対立関係になりその間で板挟みになる。明の琉球優遇政策の廃止により技能集団の外交・航海関連の実務能力の大幅な低下これにより日本国内の琉球人の漂流事件が相次いで起こる。徳川政権は島津氏を介して聘礼使節の要求を始める。
1609年、琉球征伐で薩摩藩の支配を受けることになる。

薩摩の琉球入り後、検地がおこなわれると事情は一変する。唐栄(久米村の事)籍が設けられると「中国人の子孫で三十六姓の欠を補う」という名目で、中国事情に通じているものを唐栄籍にいれて唐栄強化策がとられた。その結果人口が急増し、1699年(尚貞31)には城中に招宴され、地扶持などの優遇策をとられ職貢を全うするよう義務づけられた。こうして政治職能民としての久米村が誕生したのである。



19世紀になると、日本は欧米列強を危惧し明治維新を経て近代国家として変革していく。琉球もそんな近代の荒波に揉まれる事になっていく。日本と清という二国に従属している琉球はどちらの国のモノか問題になったのだ。
琉球王国では開化党の親日勢力と頑固党の親清または現状維持勢力が熱い口論を交わすことになった。
一旦は日本に服属する流れになったが頑固党の押し返しで結論が有耶無耶になってしまう。親清勢力のほとんどが支配階級や久米村出身者で構成されている。

1879年、琉球処分により沖縄県として編入される。しかし、頑固党の一派は清に亡命して王国再建の運動を始める。
更に、当時「旧慣温存政策」で本土と違い旧制度を採用されていた事に不満を持った「開化党」が「頑固党」と組み「公同会運動」を起こした。公同会運動とは「尚氏を執政者とし政府の監視下で沖縄の行政を担当させ沖縄に自治権をあたえる。」という運動だったが。国会で却下されそのまま沈静化する。

ここまでの独立運動は日清戦争の日本側の勝利で徐々に沈静化していく。
そして、久米村にいる特権階級は他の士族同様の扱いになり、いままでの権威はなくなっていき旧既得権益者たちも権威を衰退していくのだった。

つづく
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