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2017年03月26日18:06

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.........死ぬか生きるかの死線はさまよって

公園造成に汚染土 環境省検討
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=4495725


工場の労働者の洗濯物が建屋からいくつもかけられている風景をはじめてみたときは異様だった。




しかし何よりも異様なのは水の色でした。



しかし紺の人民服の上下を着た貧しそうな人たちが野菜畑にはかがみこんでいる。



そんな光景に待ち構えたものにくらべれば 整然と積み上げられる汚染された瓦礫が見ている。




これは汚染瓦礫が人を見ている。




その旅は西への一日がかりのことだが、車の窓からは森や林らしきものがひとつも見えなくなって



今にも枯れそうな ひょろひょろの木が ぽつりぽつりと立っているだけ




どこもかしこも 地面から草木が根こそぎにされ 水は汚染され 空気は毒されて黒ずんでいるようだった。





特に戦闘的な環境保護活動家でもない者でも 汚い空気 汚い水を知れば心が哀れになるのではないだろうか



いくら莫大な人口と壮大な経済的野心でも 地球という舞台で 気候変動ということを意識したのは依頼が膨れるようになってからだ



大気や水の汚染というのは共産主義と資本主義のそれぞれが環境におよぼす影響からであって



仕事の役割や技術的な解決の可能性では品質は維持向上させられても



中国一国だけでも 疑問だらけになっていくものである。




そうした90年代後半からの探究心に誘われて様々な業界の工場を観察するようになり 旅をすることになったが



これは戦争に廃墟して飢えにあえぐ人々とは違うが 核兵器によって自滅するか



環境破壊によって緩慢に自滅するのか という単純なことより ずっと複雑なことだと思えた。



しかし世界は1989年には地球上の人間の行動様式が変わらないとしたら



科学もテクノロジーは取り返しのつかない環境悪化を防ぐことはできないかもしれない と警告してもいた。



しかし真実の核心は科学者の環境問題を分析するための道具によって不確定な要素を含んでも推量する



だが人類は環境危機には知識が不完全でもあり 事実からは逃れようがなく危機がそこに転がっていても



その地域の人びとは そうした影響が何十年間も実感できないとしたら 脅威も危機感も感じることなく生きているのだ。




この環境危機というのは民族や種族の未来にたいしてどれほど危険を有し



人類はこれから危機との戦いに取り組まずに 何をして何へと戦うのだろうか




むろん問題とする環境危機が 地球の生物を全滅させる恐れがあるわけはない




生態系が変わって人間の生命に影響するだけだ。



だから地球を救うという問題でもない。



すなわちそういうことなのだから人為的にも大災害からでも人類は亡くなるだろうし




ほんの一瞬の地球の歴史の中では人類が住んでいる。




その立派な存在でもないのだから ヒトを編重をして見てはいるが



この国においての行動がどのような解決を促進するのか結果につながるのかという問いかけはあるだろう。




こうした環境危機からの旅は見れば見るほど 人に出会えば出会うほど まだまだ見ていないことが増える知識の旅となる。




こうしてアジアの国々の旅から 世界から進出してくるイスラエル ドイツ アメリカ 日本 オーストラリア アジアの小国の人との進出もあったが


そこに住む人びとの前途を照らすことをしていたのだろうかと思う。





いや思わなくなっていくのであって 大陸の奥地の開発図面を見ていても



人間の一大集団で工場団地を回っていても洪水が起きたり



電気が不足したり 基本的な難題と同時に工業化されて豊かな世界の住人にとっては環境危機からの自然の世界を体験するのだ。




しかし人間は自然などなくても生きていけるように考えているのだろうかとも思えるが



生きるか死ぬかの問題ではないのだから 自然を軽んじて




人間は愚かにも人口的な汚染のゴミでも地中に埋めては問題を隠していくのであろう。




そして こうだ 現実にはそんな可能性などありません。




そうして隔離された御用学者たちが調べてくれるだろう。


まぁこんな連中が汚いわけで 無償で人のためにやれる力も財力もなく どこからか金をもらっている立場でやるんでしょ


アホらしい

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