森友学園問題で「忖度」の検索が増加 どんな意味?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=128&from=diary&id=4494977
変換で一発で出てこないのでIMEに記憶させないとならないのがしんどいです。
と、いうわけで用例を載せておきます。
「クレイマーも一般視聴者に配慮を」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1948504169&owner_id=40049699&full=1
BPOに限らず「うさんくさい」のは、「青少年」という他人を出しにして自分の卑しさを出しているからです。いい加減気づかれたらいかがでしょう。
そういうことをする人には、わかりやすい外形的な特徴があります。
「首尾一貫性がない」ということです。
例えば、イギリスの国家意思自体は、国益の最大化という意味では首尾一貫しています。
そういうことをする人は、「こんなことをしたら、対象が喜ぶかも知れない」と思って、走り回っている為に、動線には法則性が一切ありません。
何故ならば、クレイマーたちが「対象」と呼んでいるものは、彼女たちひとりひとりの頭の中に像を結んだ「幻想」でしかないからです。
「クレイマーが『それ』だと思っているもの」こそが、そういうことをする人たちにとっての「それ」でしかないのです。
「それ」が直接こちらに「指示」を出しているなら、その指示は権威付けされており、どの施策も首尾一貫します。
対照的に、そういうことをする人にとっての「対象の欲望と推定されているもの」は誰によっても権威付けされておりません。
「言挙げされていない」欲望に焦点化しているのですから。
「いや、殿、その先はおっしゃいますな。
何、こちらはちゃんと飲み込んでおります。
ま、どうぞここは、この三太夫にお任せください」
これがその本懐といってもいいでしょう。
「みなまで言わずと」的制止のあとに「殿の意思」として推定されるのは、多くの場合、「三太夫の抑圧された欲望」であります。
ここで三太夫は、「私が殿の立場だったら、きっとこう考えるだろう」ということを推定します。
彼は、相手の欲望を読み取っていると思っている当のそのときに、「自分の欲望」を語ります。
「せこい」やつが対象の意思を想定すると、対象は「せこい性格」を持ったものとして観念されます。
クレイマーが「それの意思だと思っているもの」は、それぞれの「もしクレイマーがそれだったら、へこへこへつらってくる人間に向かって何を要求するか?」という自問への答えの部分でしかないのです。
ここまで、「そういうこと」と書いてきたのは「忖度」でしかありません。
「忖度されたそれの意思」はクレイマーの「卑しさ」をそのままに表示することになります。
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用例的には、丸山眞男や山本七平が想起されることでしょう。
石原会見と丸山眞男の影
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1959154343&owner_id=40049699&full=1
日本人が集団で何かを決定するとき、その決定に最も強く関与するのはなにか。提案の論理性?基礎づけの明証性?
極めて重大な決定でさえ、その採否をそれに委ねる。仮に事後的に決定が誤りであったことが分かろうとも、「とても反対できるものではなかった」という言い訳が口を衝く。
戦艦大和の沖縄出撃後の戦後の言葉曰く。
「これに対する最高責任者、連合艦隊司令長官の戦後の言葉はどうか。『戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の論評に対しては、私は当時『ああせざるを得なかった』と答うる以上に弁疏(べんそ)しようとは思わない』であって、いかなるデータに基づいてこの決断を下したかは明らかにしていない。それは当然であろう。彼が『ああせざるを得なかった』ようにしたのは『空気』であったから――。」(山本七平『「空気」の研究』(文春文庫、1983)pp.18-19)
場の空気と論理性が背馳する場合に、我々は空気に従う(まことに不思議な心象ですが)と示した人物がもうひとりおります。
「ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているに違いない。然るに我が国の場合はこれだけの大戦争を起しながら、我こそ戦争を起したという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。」(丸山眞男「超国家主義の論理と心理」(丸山眞男著、杉田敦編『丸山眞男セレクション』(平凡社、2010.04)所収)
さて、「ずるずる」とはなんでしょう?
その政治的行為を主宰する主体がいない、ということです。
ある決定の初発の意図を説明し、それを指導的に遂行し、それがもたらす功罪のすべてについて固有名において責任を取る人間がいない。
既成事実の前に無限に屈服してゆき、個人としての責任の引き受けはこれを拒否する。
それがわかりやすい例をご紹介するほどでもないですが。
キーナン検察官の最終論告に曰く。
「二十五名の被告の全ての者から我々はひとつの共通した答弁を聴きました。それは即ち彼等の中の唯一人としてこの戦争を惹起することを欲しなかったというのであります。(・・・)彼等は他に択ぶべき途は開かれていなかったと、平然と主張致します。」」(丸山眞男著、杉田敦編『丸山眞男セレクション』(平凡社、2010.04)所収)
「(・・・)ここで『現実』というものは常に作り出されつつあるもの或(あるい)は作り出され行くものと考えられないで、作り出されて『しまったと』、いな、さらにはっきりいえば『どこからか起こって来たもの』と考えられていることである。『現実的』に行動するということは、だから、過去への繋縛(けいばく)のなかに生きているということになる。」(丸山眞男「超国家主義の論理と心理」『現代政治の思想と行動』(未來社、1964)P109)
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