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2017年03月22日00:04

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弁天丸みどり丸玻璃丸

おとな旅あるき旅で竹生島を訪れてるのを見て、無性に行きたくなってきた。
なにを隠そう、あの島に行ったのは過去に一度だけ、それも45年くらい前のこと。
でも、はっきり覚えてるのは、その頃からやっぱり乗り物好きやったからやな。

当時、長浜港からはちっこい2層甲板の弁天丸、彦根からは3層のみどり丸、大津からは湖に浮かぶものとしては巨船と言える玻璃丸が就航していた。
竹生島に渡った少年のボクは、ほかのみんながお参りするのをそっちのけに、桟橋に係留されたみどり丸と玻璃丸を見てまわった。
3層のデッキの上に、前に張り出したブリッジを持つ玻璃丸は威風堂々としており、船内にレストランとか個室があるのにもびっくり。
みどり丸の01甲板には寿司屋があって、職人さんが握ってるのをきみえおばちゃんの妹のとしこおばちゃんにおねだりして食べさせてもらったら、湯飲みがタバコ臭かったのをなぜだか覚えてる。

ついでにそれぞれの船の来歴を改めて調べてびっくり。
玻璃丸は昭和26年に進水し、昭和57年まで就航していて634トン。
280トンのみどり丸は少し新しく、昭和39年進水で、61年に退役。
引退後は琵琶湖大橋の堅田側にしばらく係留されていたのが懐かしい。
どっちも塩水に浸かっていないので、まだ船齢は残ってたけど、琵琶湖総合開発に伴う水位低下に対応できそうにないので、代替船建造の補助金と引き換えに早期引退。
でかいと思ってたのに、後継で外輪船のミシガンが937トン、ビアンカに至っては1216トンもあることと比べたらずいぶん小さかったんやね。
ことさらびっくりしたのは長浜から出ていた112トンの弁天丸で、なんと昭和10年の完成って、戦前に出来た船に乗せてもろてたんや。
戦前の船と戦後の船の大きな違いは鋲構造と溶接構造。
戦後は溶接で鉄板をつなげるのが当たり前になったけど、戦前までは鉄板の端と端を重ね合わせて鋲で留めるようになっていた。
もし、あのときそんな知識があったら、弁天丸の船体の造りを確かめたのに。
さらにびっくりしたのが、その弁天丸のあとを引き継いだいんたーらーけん。
昭和56年から25年以上にわたって就航したのち退役、その船体を拡大改造し、平成17年にmegumiに生まれ変わって再就役してた。

琵琶湖でのオペレーターは京阪グループの琵琶湖汽船やと思い、HPを見たところ、なぜだか彦根発の便がなくなっている。
調べ直したところ、彦根からは西武系のオーミマリンが船を出していた。
このへん、湖北と違って湖東は西武が強いのと関係あんのかもね。

ちなみに、昭和41年の「大魔神怒る」で武神像が蘇る場所は竹生島だと滋賀県では昔から言われている。
都久夫須麻神社は日本三大弁才天のひとつで最古、創建は724年。
それと同時に創建されて、同じく弁才天を祀る西国三十三ヶ寺の30番である宝厳寺の極楽門には秀吉が建てた大坂城の遺構であるとの言い伝えが。
この社寺、江戸時代まではひとつやったのが、明治時代の神仏分離令でふたつに分けられたとのこと。
日本を代表するパワースポットのひとつでもあるとのことで、じつにおめでたい。
そやけど、ここで土産もん屋やってる同級生は40すぎくらいで見事にはげたし、野球仲間やった住職も....いや、やめとこ。

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