・庄子郎女
尼子娘とも。
655年に息子を生んだとされていますが、
父(子には祖父)徳善が死んだのが、この情報によると644年ぐらい。
だもんで結婚 早かったと思イますねー、
割と力の在る豪族の、トップが死んでて若い兄弟だけだった。
その二人の間に挟まれている姫ですよ?
野心家の他氏がどんだけ群がって、家乗っ取ろうと求婚してきた事やら★
(それで行き遅れるとか有り得ない)
そして:有象無象どもを蹴散らして、姫をゲットしたノは皇子様!!
――ま、奥さん多い人なんでぇ、何処までハッピーエンドだったかは分かりませんが
(身分低かったみたいだし。当時の結婚観も在るしねぇ)
・宗像氏實の二女
大友能直の妻の名は、深妙というらしいが詳細不明。
氏實は俗字で氏実と書く。
ポイントだけ言うと、西暦1199年の某日
源頼朝「息子にイイ嫁いないかのう(チラ)」
ウチの先祖「ははっ、我が家の遠い親戚に……」
――と、イウやり取りによって紹介されてルお姫様。
ウチの先祖は:仲人なんてホノボノな事してんなぁ、とか思イつつ、
聞き覚えは無いのでホントかドウカ、――まぁ疑わしいエピソード。
(軽く当時のVIPだぞ?)
調べてみて分かったンだけれど:
この頃の九州武士の殆どは、宗像氏を含め(元)平家方。
ウチの御先祖は源氏方で、頼朝公としては、
つまり九州勢を自分の側に引き入れる、相応のコネなり、手口なり。
必要だった訳ですよ。
その意味で事実だったのカモなんだよなぁ、
頼朝サマのこの台詞、彼女を差し出すと分かってて言ってる。
(鎌倉幕府の情報網が、宗像のコト知らなかった筈ないし。
状況的にウチの先祖、保身の為に言わされてルとも←全然ホノボノじゃない)
政略結婚に嫁ぐ姫。
悪い意味に取れば人質ですが、まぁ、其処まで悲観するような事だったかドウカは。
いい意味に取れば将軍の義娘だシ。
http://minatuya.gooside.com///story/161006omake/161006omake00.htm
ログインしてコメントを確認・投稿する