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2017年03月07日23:45

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新作講談・『右衛門の雛流し』 第一部

えー、皆様。寒い中を遠路はるばるようこそお越し下さいました。

噺家のタコアシ亭ヨシタロウと申します。
本日はご縁あって、手前の寄席に足をお運び下すって誠にもってありがとう存じます。
席亭に代わって厚く御礼申し上げる次第でェございます。

本日いらっしゃったお客様のほとんどが初めてという方ばかりでしょうが、今を遡ること7年前に新作落語・『噺家円朝一代記』の枕の一席をやったんでございますが、席亭からギャラが支払われずに怒った私が放置してそのまま今日まで忘れてしまったという珍事がございました。

どんな話か気になる方はそちらもどうぞ。
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えー、さて。本日は講談でございます。少々お付き合いを願います。

講談は俗に講釈とも言いましてェ、落語と並ぶ伝統話芸でございます。

講談の歴史は古く、奈良・平安の御代にまで遡ると言われ、高座に釈台と呼ばれる机に拍子木や張り扇といった小道具で、えー、この机をですね、こうタタンと叩いて調子を取りつつ、『太平記』や『源平盛衰記』、『太閤記』などに代表される軍記物や『三方ヶ原の合戦』『関ヶ原の合戦』などの軍談、えー、そして『忠臣蔵』や『曽我兄弟』の仇討(あだうち)、御家騒動なら『伊達騒動』『加賀騒動』『黒田騒動』の三大騒動がございますし、夏になれば『四谷怪談』などの怪談物、侠客ならば 『清水次郎長』 『国定忠治』 『幡隨院長兵衛』『天保水滸伝』 などの演目がずらり。
あー疲れた。失礼、ちょっとお茶を一杯・・・・・・。

ああ、これはどうも。今ね、ちょうど皆でお客さんの噂してたとこなんです。
どうぞどうぞ、そろそろお見えになるんではないかとお待ちしておりました。
私の眼の前の席が空いてるんでどうぞこちらへ遠慮なく。
別に取って喰おうなんてしませんよ。ただ、時々私の唾が飛ぶかも知れませんがね。
はいはい、どうぞどうぞって本当に座っちゃったよ。お客様は素直ですなぁ。

あー、美味い。こりゃ梅昆布茶だねぇ。梅と言えば、春ですなぁ。

そういやぁ、先日、都内にある清澄庭園で緋梅が咲いておりまして。
梅の花言葉は「高潔」「忍耐」「忠実」なんだそうでございます。
白梅だけは別に「上品」と言うんだそうですな。

今日のお客様はってェと・・・・・・うおっほん。あ、いけね。着物にお茶をこぼしちまったい。
困ったね、どうも。講談中に股の間からふわーっと梅の香りがね。
まぁ、風流だと思えばこんなシミくらいなんでもないんですが、後で楽屋で私が本番中に漏らしたと笑われたらどうしようかと。

あ、そこのお客さん、そう、今私と目が合ったあなたですよ。
あなた、私の証人になって後で楽屋に付いて来て下さい。お願いしますよ。

タタン、タン、タン。

本日の演目は、『右衛門の雛流し』。

お雛様と言えば、3月3日の桃の節句。
今年ももう幾日か過ぎてしまいましたけれども、お内裏様とお雛様。

これは天皇陛下と皇后陛下のお二方、もしくは親王および内親王妃をさしまして、続くのが三人官女。これは宮中で宮仕えをする官職を持った女官のことでございます。その下に五人囃子(ごにんばやし)。5人の宮廷楽士をさして、向かって右から、謡(うたい)、笛(ふえ)、小鼓(こつづみ)、大鼓(おおつづみ)、太鼓(たいこ)の順で、右から小さい楽器の順に揃えるのが正式なんだそうです。この更に下の段に並ぶのが右大臣と左大臣。

今、私が右大臣、左大臣と申しましたが、位の上では左大臣が上位にあたりまして、俗に左右と称するように日本では古くから左側が上位とされておるんだそうでございます。

宮中では古くから『左近の桜、右近の橘』という言い伝えの通り、内裏の紫宸殿(南殿)の前庭に桜と橘の木が植えられているんだそうですが、意味がお分かりでしょうか。

左近・右近とは左近衛府(さこんえふ)・右近衛府(うこんえふ)という天皇の護衛や御所などの警護、儀式の参列が許される宮中の部署の略称でございます。

左近衛府は紫宸殿の東に、右近衛府は西にありまして、その目印としてそれぞれ桜と橘が植えられているので『左近の桜、右近の橘』と言われるようになったとか。

平安時代末期に書かれた『古事談』という文献には、紫宸殿の桜は元々は梅であったそうですが、泣くよウグイス平安京で有名な794年(延暦13年)の平安京遷都のときに植えられたものの、960年(天徳4年)に内裏と共に一度焼失致しまして、内裏を新造した際に、梅に代えて重明親王の家の桜を移植したのが由来で、橘は遷都以前にそこに住んでいた橘大夫という人の家に生えていたものであったという確かな記述がございます。

現代では橘右近という人物までおりましてな。そのお方というのが、東京芝浜松町出身の落語家で橘流寄席文字の家元、つまり書家でもある人物であります。

えー、ここにいる皆様は一度は目にされたかと思いますが、落語や歌舞伎などで見掛ける独特の書体の文字が寄席文字というものなんでございます。その文字を書くお師匠さんが、橘右近。
で、その弟子が橘左近。弟子が左近で上位なんて偉そうだなんてのは、お愛嬌。

一方の桜左近の方はというと、これが調べても一向に出てこない。
しかしですな。どうもそれらしき人物というのを私が見つけてまいりました。

その人物は皆様ご存知の『遠山の金さん』こと遠山金四郎景元という人物。

遠山の金さんは若い頃は大層な悪人と申しますか、今で云う不良青年だったそうで、その時に彫った刺青が桜吹雪であったとか。テレビで見たあれは、満更嘘でもないといった具合でしょうか。しかし、大人になって改心致しまして江戸北町奉行所の奉行になってゆくのであります。

この遠山金四郎景元、実は従五位下(じゅごいのげ)左衛門少尉(さえもんのじょうい)という官位を授かっております。左衛門と言えば、そう、左近衛府。つまり左近に通じる。奉行所の御白州でやおら肩衣を脱いで見せるは桜吹雪。

『これ、この桜吹雪が目に入らぬか。正直、忘れたとは言わせまい。この遠山金四郎こと左衛門尉景元が江戸に咲く天下御免の左近の桜よ!!』

タタン、タンタン。

えー、拍手を頂戴いたしまして、誠にありがとうございます。
しかし、遠山の金さんは左衛門。本日の主役じゃあございません。
くどいようですが、演目は『右衛門の雛流し』。話を元に戻しましょう。

雛祭りが行われる3月3日を桃の節句と申しますが、これは昔の旧暦のことを言いまして、現在では4月上旬の桃の花が咲く頃であったからこう呼ばれるようになったのでございます。

雛人形が今日のような飾り物となったのは、江戸時代に入って大名や豪商といった所から徐々に庶民のお祭りへとなっていったそうで、昔は天皇家や公家や大名や武家の行事でありました。

物語の舞台は戦国乱世の近江国(おうみのくに)。現在の滋賀県のとある村。

遠く宇多天皇を先祖に持つ名門、近江源氏佐々木氏の庶流で、室町時代には初代足利将軍の足利尊氏公に仕えて活躍したバサラ大名でも有名な佐々木道誉(どうよ)、またの名を京極高氏なる大人物を輩出した家柄の京極家。

最盛期には室町幕府の軍事指揮権や警察権力や税徴収権を司る侍所(さむらいどころ)の長官に交代でなれる四職(ししき)と呼ばれる有力大名の赤松、一色、京極、山名の4氏に選ばれ、他にも幕府の要職である引付頭人、評定衆、政所執事に就任し、さらには近江(滋賀)・飛騨(岐阜)・出雲(島根)・若狭(福井)・上総(千葉)・摂津(兵庫&大阪)の6カ国の守護を務めることとなる大大名でありました。

守護とは例えるなら今で云う県知事のようなものでございます。
つまり、一人の人間が、政府の数々の要職にありながら、同時に6つの県の県知事でもあるという真にもって絶大な権力者の一族が京極家なのであります。

しかし、その勢威が衰えてくると次々と領国を奪われていきます。

それぞれの国を自分で直接治めるのは無理なので、代わりに自分の腹心を代官として現地に送り込み、そこから上がる税収を上納させるというシステムだったのですが、領地が離れているのをいいことに部下である現地の代官たちが次々と主人を裏切って己の土地として簒奪してしまうのであります。

更には一族同士の跡目争いで骨肉の争いを繰り広げ、遂には国も地位も失って土地を追われる者まで出る始末。弱り目に祟り目とはよく言ったものですなぁ。

タタン、タンタン。

さてさて、件の村に居を構えたるは、京極経秀が一子、吉童子丸改め京極治部少輔(じぶしょうゆう)経高とそのご家来衆。

元は出雲へと出向いていたのでありますが、争いに敗れて父が死ぬと家督を継いだものの、わずかな家来と共に逃げるようにと本拠地でもある近江国へとやってきて、狭いながらも土地を治めておりました。

ところが、時は戦国乱世の真っ只中。世に云う下剋上の流れの中で、寸土の土地であっても弱いと見れば襲って奪うという世の中でもありました。

一族の主流派であった京極持清が病没後、その跡目と領地を巡って実に34年にも及ぶ一大騒動、世に名高い『京極騒動』が終わりを告げたばかり。

生き残り必死の経高主従の領地に挑み掛かってきたのが、山賊野盗の親分からのし上がった近江の土豪塩谷貞盛とその子分およそ300。

対峙する経高一行もほぼ同数の300。とは言え、城持ちではなくて、館と呼ばれる平屋敷な上に屋敷の周囲には水堀があるにはあるが、飛べば壁に届いてしまうようなもので、とてもここでは戦えない。経高軍は負け戦が続いて士気が上がらないが、ここで負ければ滅亡の身の上。土豪の塩谷軍は貪欲で、戦を好む集団でありました。

タタン。

戦いは村外れの安曇川(あどがわ)の河原で激突し、双方共に数十名の死者を出しての痛み分け。塩谷軍が川上の方へと退いて行くことで合戦は幕を閉じ、京極経高は何とか滅亡を免れたのであります。

ところが、諦めの悪いのが、山賊上がりの大親分。年は50を過ぎて白髪交じりではあるものの、短気で眼光鋭く、執着心が強い故に荒れに荒れた。

執着の原因はと申しますと、諸国に鳴り響く美女と謳われた名門京極経高の妹で、当年とって15歳になる於梅の存在があったからだと言われており、その証拠に合戦の数日後の夜明けと共に塩谷貞盛から経高の元へと使者がやって参ります。

タタン。

使者の口上は至極単純で、『お宅の姫君である於梅殿を当主貞盛の嫁に貰い受けたい』と落魄したとはいえ、超が付くほどの名門出身の経高に対して無礼千万で居丈高な物言い。戦は引き分けに終わったにもかかわらず、勝者のような態度で人質同然に姫を寄越せと迫るとは。

いやぁ〜、品がないこと山の如し。
要は『俺の物は俺の物。お前の物も俺の物』という性格なんでしょう。
はっきり言ってジャイアンですな。しかも貞盛は50を越えた男。
その男が、こともあろうに15の生娘を欲しがるなど、今で云えばロリコンですな。
ロリコンは当時で言ったら何て呼んだんでしょうねぇ。やはり変態でしょうか。
ちょっとそこで笑ってるお客さん、おまいさんの鼻の下ぁ伸びてるよ。
え?元からだって?こいつは失礼。いや、驚いた。
あるんだねぇ、生まれつきの変態顔ってのが。

冗談はさて置き、口上を聞いて怒り心頭に達した経高は、使者を斬り捨てると、従者にその首を渡して、『貴様のように無礼でたかだか山賊風情の野蛮な猪武者に気高き京極家の血を引く妹は、断じて嫁にはやらぬと申し伝えよ!!』と追い返した。

タタン。

従者が遺骸を持って這う這うの体で逃げ帰った後、経高はすぐさま筆頭家老の多賀豊後守高家と話し合いを持ちます。

多賀家は京極家の縁戚に連なる家系で、佐々木道誉こと京極高氏の頃から家来として支えてきた重臣でありまして、父の多賀豊後守高忠は知勇兼備の名将で、嫡子である高家もまた父に劣らず、凋落の一途をたどる主家を支える得難い忠臣でありました。

しかし、寄る年波には勝てぬとの例え通り、齢も50の半ばを過ぎ、先代の主君京極経秀が同族の京極高清の軍勢に急襲されて、自害の追い込まれた際に遺児である経高を守って戦い、その時の傷がもとで右足が不自由となりまして、以後は戦場に立てず、お家の政治や外交を取り仕切る家宰という立場で若い経高を支えておったという訳です。

多賀豊後守は、しばし沈思黙考した後、意を決して口を開きました。

『殿が塩谷殿の使者を斬ってしまったのは、如何に短慮のこととは申せども、斯様に無礼な言い様では、斬られても止むを得ぬことでしょう。しかし、問題はこの後で御座ろう。敵は縁談を断られたことに腹を立て、いずれまた近いうちに戦を仕掛けて参るはず。そうなれば、こちらも痛手を蒙るばかりか、もし戦に敗れれば我らは滅亡か、北の朝倉殿を頼って落ち延びねばなりませぬ。於梅様の身も危うくなり申す』

『豊後守、おぬしの策を申せ』と経高が、怒りを抑えた表情で見据えますと、豊後守は、ははっと一度恐縮してから『さればでございます』と続けました。

『敵は高島七頭の一つ朽木家を後ろ盾とし、その背後には宿敵京極高清殿がおられまする。となればこちらも彼らに太刀打ち出来る後ろ盾がなければなりませぬ。しかしながら、北の朝倉殿ではいかにも遠過ぎる。我等は高島七頭とは中立なれど、結束の固い彼等のこと、敵に朽木家がお味方しているとなれば、援軍は期待出来ぬものと推察致します。そこで、策がございます。』

『うむ。申してみよ』

『はっ。その策とは隣国若狭国の守護大名武田大膳大夫元信殿の御子息彦次郎殿とご当家の於梅様との縁談を持ち掛け、事が成った暁にはすぐさま援軍を要請するというのは如何かと』

『於梅を武田の嫁にと申すか。しかし、於梅は右衛門の許嫁ではないか』

『お家の為とあれば、致し方御座りませぬ』

『右衛門はそのことを承知しておるのか』

『いえ、まだ伝えてはおりませぬ。しかし、事は急を要しまする』

『むむ、ならばよし』と経高の方も覚悟を決めて手を鳴らし、

『誰かある。至急、右衛門を呼べ』と命じた。

ほどなくやって来た右衛門が、威儀を正して

『殿、火急の用と承って急ぎ罷り越しまして御座りまする』と挨拶をした。

タタン、タンタン。

えー、皆様。大変長らくお待たせを致しました。真打右衛門の登場でェございます。

右衛門こと多賀右衛門佐(うえもんのすけ)経広は、多賀豊後守高家の嫡男で、齢25にして身の丈6尺(約180cm)の偉丈夫で、おまけに眉目秀麗な若者と三拍子揃った良い漢。

主君である京極治部少輔経高は、永正7年(1510年)のこの時、ようやく18になったばかり。
そんな経高が、兄とも慕う右衛門はこの秋に於梅と祝言を挙げると互いに言い交した仲でありました。二人に縁談を勧めたのは、誰あろう先代の京極経秀でございます。

経秀は、才気煥発な若者の右衛門をいたく気に入りまして、娘の於梅が15を迎える年に右衛門に娶せて経高の腹心として取り込もうとの考えからでした。
しかし、経秀は3年前に敵に襲われて無念の露と消え落ちてしまったのです。

当時の結婚というものは、恋愛結婚ではなくて、親同士、もしくは国同士の思惑に沿って決められる一方的なお見合い結婚でございまして、子は親の決定に黙って従うのが、決まりでありました。

しかも大名や豪族など身分が高ければ高いほど、娘は他国に嫁ぐことが多く、結婚が親と子の今生の別れになる場合がほとんどで、早ければ10歳くらいで嫁ぐこともあったと申しますから、いやはや何ともつらい世の中でありましたなぁ・・・・・・。

タタン。

事の顛末を父から聞いた右衛門は、その場でがっくりと肩を落として項垂れておりましたが、お家の為だと言われたら、否が応でも納得しなければなりません。

右衛門は涙を堪えて一言、『承知致しました』と平伏したのであります。

主の経高も右衛門と於梅の恋の事情を知っている故に、深く同情し、己の力不足を恥じるように、こちらも頭を下げて『右衛門、すまぬ』と詫びたのでありました。

しかし、於梅はこの決定をまだ知りません。

そもそも、この縁談も成功するかどうかも決まっておらず、破談になれば、また一から策を練り直さなければならないというそれはそれは難しい局面にございました。

果たしてこの重要な役目の使者を誰にするのか。

すると、それまで平伏していた右衛門が顔を上げて、『恐れながら殿に申し上げます。その使者の御役目、是非ともこの右衛門にお命じ下さいませ』と訴えた。

『経広、よくぞ申した。殿、この豊後からも使者の御役目を是非とも経広めにお命じ下さりますようお願い申し上げます。お家存続の為、一族挙げて今後とも力を尽くす所存に御座りまする』

経高は、栄華を誇った天下の名族京極家の斜陽の中にあって、己を見捨てることなく忠節を誓う二人の家臣を前に涙を浮かべて微笑んだ。

『右衛門、そなたに武田への使者を命ずる』

『ははぁ、ありがたき幸せに存じまする。この御役目命に代えて必ず果たしてご覧にいれまする』

経高は、右衛門の手を取ると頬を伝う涙をそのままに、

『余は良い家臣に恵まれたぞ』と。

それを聞いた豊後守も共に涙を流して頷いた。

タタン、タンタン。

それから、経高は広間に主だった重臣を集めて評定を開き、若狭国の武田氏と婚姻関係を結ぶ使者を出すことを告げ、改めて右衛門に使者を命じた。その決定には誰もが驚いたが、右衛門には動揺も迷いもなかったのであります。

その後、右衛門は主君経高の書状と口上を持って騎乗の人となり、青く澄んだ空の下、若狭へと続く道を全力で駆け抜けていったのでございます。

果たして右衛門は無事に役目を果たすのか。
京極家の危機を救うことが出来るのか。
於梅と右衛門の運命や如何に。

今宵はここまでに致しとう御座りまする。
新作講談・『右衛門の雛流し』 第一部でございました。
第二部も是非とも足をお運び下さりますよう伏してお願い申し上げます。

ありがとうございました。ありがとうございました。
どうぞお気を付けてお帰り下さいまし。


                〜第一幕〜


 第二部はこちら。
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(注)この作品はタコアシのものです。
不正な転載や盗作、並びに違法行為に
なることは固く禁じさせて頂きます。

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