mixiユーザー(id:61160406)

2017年03月06日14:26

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今まで調べてきたモノのメモ的なもの

三山時代、察度王時代に明へ朝貢し冊封される、福州から特殊技能民を迎え入れる。(後の久米村三十六姓)
察度王統から第一尚氏王統になると首都を浦添から首里に移設し三山は統一された。その後、領土拡大を狙い一四六一、六六年に奄美、喜界島侵攻を開始する。二回の遠征や内乱により国内が疲弊すると、金丸(後の尚円)はこの財政難を乗り切るために、中国や東南アジアへ積極的に貿易をする事業を開始した。

その為に、中国事情に詳しい久米村にいる中国人達との交流を深くし、交易の実施集団久米三十六姓の信頼を得ていく事になる。
一四七〇年、臣民に推される形で金丸は国王になった。
これを第二尚氏王統という。

第二尚氏王統での久米村出身者は、普通の王族(王子、按司)、士族(サムレー)とは違った位階のシステムをもっている。
若秀才ー秀才ー通事ー副通事ー都通事ー中議大夫ー正議大夫ー紫金大夫(親方を名乗る)の順で出世した。紫金大夫の中から久米村全体を統括する「総理唐栄司」が選出された。

建国のプロデューサーとして「懐機」(かいき)などの久米系華僑が暗躍したのではと考えられる。
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