mixiユーザー(id:61160406)

2017年03月04日21:46

295 view

今まで調べてきたモノのメモ的なもの

沖縄は村単位で社会を構成していたグスク時代から始まる。
そこに浦添から英祖王が沖縄本島を統一13世紀中盤から14世紀中盤まで栄えていた。これが英祖王統時代である

しかし、4代目の玉城の時代に権力基盤が崩れ三山時代が始まる。
そこに登場したのは謝名村から来た察度王である、かれは中山を瞬く間に支配し明との冊封関係を築いた。
近年ではこの時代にすでに東南アジアとの交易をしていたこともわかる。

※察度王と奥間一族についてはこちらのサイトを参照(http://rekioakiaki.blog.fc2.com/blog-entry-511.html?sp)

察度王統二代目武寧の時代に明の永楽帝に朝貢した時に現在の福建省
から技術者集団を下賜される。
これが俗にいう「久米三十六姓」である(三十六という数字は「いっぱい」を意味する。)

しかし、武寧の時代も国内は安定せずに南山の佐敷按司、尚巴志・思紹親子が襲来し察度王統は滅ぶ。


第一尚氏王統は北山と南山を攻め滅ぼし統一王朝をつくる。





第一尚氏王統を語る前に尚巴志の祖父、「鮫川大主 (さめかわうふぬし)」がいる。
1330年頃、伊平屋島で大蔵大主の息子として生まれる。

隣の伊是名島の統治を父大蔵大主に任される。
さて、一節では「鮫川大主は刀剣の鞘部分である鮫皮(さぬかわ)を商いする商人だったのでは?」という説がある
時代は14世紀中期、日本列島では南北朝時代、多くの武士が合戦で刀剣をしようしている。大和の商人が中国の広州や福州などで取引されるモノの他に、伊是名島でも取引があったのではないか?

後に島民から追放されたのも交易や加工がらみでのトラブルが原因だと考えられている。父、大蔵大主(やくらうふぬし)の名前から察するに交易関係で財を蓄えたと考えるのが自然ではないでしょうか。

さて、伊是名島追放後、沖縄本島の馬天浜へ逃げ佐敷(南城市)で大城按司(うふぐしくあじ)と出会い、娘婿になります。

その大城按司の娘との間に生まれたのが第一尚氏王朝の初代「尚思紹」である。



尚思紹を名乗る前に苗代大親(なーしるうふや)という名をなのっていた。彼は佐敷の有力者・美里之子の娘と結婚する。この美里之子はネットで情報をあさってみたが情報がない。
前後か定かではないが、やがて佐敷地域の領主になり佐敷按司と呼ばれるようになる。
母方の実家であるは島添大里按司と争って滅ぼされてしまいます。
39歳の時に、息子「尚巴志」に家督をゆずりました。

何故わかくして家督を譲ったのかを考えてみて、同じような例を一つ思いついた。戦国時代の大名、徳川家も松平清康の代に同じように若い松平信忠を隠居させて清康を当主にした例があります。


たぶん、家運や経営方針の不安から家臣団が心機一転の為に若い当主を担ぎだしたのではないだろうか?(もちろん合意済みで)
この尚思紹は息子の尚巴志にかつがれて王様になってしまう(実際は尚巴志が実験を握っていたのだが)のだから第一線を退くというわけではなく、家政から身を引いていただけとも考えられる。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する