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2017年03月04日10:13

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安倍政権下の歪んだ言語空間を考える

■首相がんばれの園児宣誓「不適切だった」 森友学園側
(朝日新聞デジタル - 03月04日 05:41)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4461026

この森友学園の問題によって、他にもある重要な問題が吹き飛ばされてしまっているのが不安である。共謀罪の問題しかり、南スーダンの問題しかりである。今も南スーダンでは自衛隊員が命の危険を感じながら、ことに当たっているわけで、おそらく彼らは日報に「戦闘」というワードを用いないよう圧力を受けていることだろう。

最近、私が危惧しているのは安倍政権下で起きている「言葉の言い換え」の問題である。

「戦闘」を「衝突」と言い換える以外にも、「共謀罪」を「テロ等準備罪」、集団的自衛権の問題で出てきた「平和安全法制」や「積極的平和主義」など。こういう常識から乖離した言語表現に国民を順応させるという手法は、全体主義社会では非常にポピュラーなものである。

例えば欺瞞と虚偽によって人類史的悲劇を作り出したアドルフ・ヒトラーの次の言葉は、権力者が発する言葉に我々がどれほど警戒的であらねばならないかをよく物語っている。

「宣伝の役割は、それが敵に有利であるかぎり、真実の客観的な調査をして、それを学問的公平さにもとづいて大衆に知らしめるといったものではない。常に、断固としてわれわれの利権を確保することである。」

「客観的真実」よりも、断固とした利権の確保が最優先なのである。ヒトラーならば「戦闘」という客観的事実が、断固とした利権の確保に不都合であったなら躊躇することなく「衝突」と言い換えることだろう。

戦中の日本でもこうした言い換えは頻繁に見られた。退却は転進、全滅は玉砕、戦死者は英霊である。歴史家の保阪正康は著書『太平洋戦争を考えるヒント』の中で、大本営発表を検証して次のように言う。

「軍事に関する情報は、それを発表する側は常に隠蔽したがるものであり、発表するときも、虚偽や誇大、そして責任回避はつきまとうものであり、国民はその発表文を鵜呑みにしてはいけないということである」

森友学園の問題にしても、隠蔽や虚偽、責任回避は随所に見受けられる。まさしく「国民はその発表文を鵜呑みにしてはいけないということである」。なぜなら「真実の客観的な調査をして、それを学問的公平さにもとづいて大衆に知らしめる」ことよりも、「常に、断固としてわれわれの利権を確保すること」が重要視されているからだ。

以前の日記でも言及したとおり、森友学園における教育では、「愛国」が「他国への侮蔑」によって表現されている。本来、両者は本質を異にする別個の問題のはずである。しかし、日本への愛着は「よこしまな在日韓国人・支那人」と言い換えられてしまうのだ。

おそらく森友学園の教育が日本のスタンダートになれば、周辺国との軋轢は深まり、「平和」を呼号しながら「戦争」を始めるという現象も起こってくることだろう。

かつてナチス宣伝相ゲッベルスは次のように言ったという。

「人々を鎖につなぐことほど簡単なことはない。私が派手な宣伝ポスターを掲げただけで、彼らはそれに飛びついてきた」

確かにヒトラーもゲッベルスも、ともに最後は自殺に追い込まれている。したがって彼らの認識が彼ら自身の「利権」を守る役に立たなかったことは疑いない。だが、それは夥しい人命損失の後だったのである。その損失を「英霊」と呼びたい人がいるだろうか。疑問である。
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