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2017年03月03日10:17

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【映画】ラ・ラ・ランド 〜観客の理解力を試す監督、相当、意地悪な事は判った(褒め言葉)〜

おはこんばんちわ。

(自称)絶滅危惧種、超兄貴です。

さて、タイトルを見て、ご覧の通り、ちょっと壊れ気味ながらも、昔のスタイルで毒をまき散らす覚悟満々で書いていきますが、まだ、本調子じゃないので、ブレるかもしれません。

決定的なネタバレは極力控えるつもりですが、説明の都合上、観た人ののみに伝わる表現で仔細を書き綴る箇所が出てくると思います。
なので、本作を観た人のみ、読み進めて下さい。


<結論>個人的にこの作品はアリかナシかについて
私には、大アリでした。
ミュージカルが好きな方なら、観るべき映画です。
あと、映画的文法の解釈を楽しみたい方(多分少数派)にもお勧めできる仕掛けが満載です。(私的には、むしろこちらの観点で楽しみました)
ただし、「主人公達が唄って踊る様を堪能する」ミュージカルの王道を期待すると、落胆する可能性は高いです。


<念押し>
いわずもがな、レンタルDVDなんて論外だからね。
最低限、スクリーンで観て下さいよ。
たとえ、監督の意図を汲み損ねたとしても、楽しめる作品である事は保障します。


(ここまで、ネタバレ無し。この先、ネタを含んだ解説モードです、未見者は読まないように)










<解説1>本作の「ミュージカル」は、ラストの表現の為の舞台装置でしかない

本作のラストで、もの凄く、エモーショナルなシーンが登場するのですが、仮に、本作がミュージカルのフォーマットに乗っていなかったら、多分、ハレーションを起こしちゃうでしょう。
(私的には、誰も死なない、「パンズラビリンス」って印象ですね)

近い例では、ウォシャウスキー兄弟(当時はまだ兄弟)の「スピードレーサー」かな?
あの、ジェリービーンズをぶちまけたようなド派手な色彩構成。
あれは、クライマックスの極彩色のレースシーン迄を意識した上で、最初から、統一されたトーンで描く為に、そうなってました。(そのせいで、食わず嫌い層を大量生産してしまいましたが…傑作です)

つまり、監督は、ミュージカル映画を作りたかったのではなくて、明確に撮りたい表現があって、それを自然に作品に溶け込ませる為に、ミュージカルというフォーマットを選択しただけなのです。
ここを勘違いすると、不幸になります。


<解説2>ジャズと脚本の相関について
この監督は、前作「セッション」で、ジャズ演奏に没頭する様子をドSモード満載で描き、各方面から、賛否両論を浴びた方らしいですね。(私、観てませんので、また聞き情報)
しかも、原題は「ウィップラッシュ」、直訳すると「ビシバシ鞭打ち」。
まあ、この邦題を「セッション」としたのは、やむなしかとは思いますが、騙されて撃沈された観客は多かろうと、存分に予想できます。

なぜなら、本作の主人公の一人によって、ジャズの音楽性の解説が飛び出すのですが、それを訊く限りにおいては、ジャズは、音楽ジャンルじゃなくて、「格闘技」の部類じゃないかと思えるくらいなんですね。
柔らかめに表現して「高度な演奏センスのぶつかりあい/主導権争いの様子を楽しむのがジャズの醍醐味」ってことになってます。

ぶっちゃけ、このジャズに於ける表現センスのぶつかり合いをモチーフにして、異なる才能に溢れる2人の出会いと成長を描いているのが本作の基本フレームであって、恋愛要素とかは、集客の為に広げた表向きの体裁(風呂敷)なんじゃないかと感じます。

つまり、ラ・ラ・ランドで描きたかったのは、才能同士のぶつかり合い/切磋琢磨/芸術表現の方向性による衝突/瓦解云々であって、それは、前作から変わっていないのではないか?

ただ、前作が、あまりに尖りすぎてたので、「表向きの体裁をマイルドにしましたが如何でしょう?」と語りかけてきてるように見えるんですね。
(私は、そういう映画文法上の行間を読むのが大好きなので、本作を肯定しています)



<解説3>職人芸と分業体制の対比
「ミュージカルなのに、主役2人共ヘタクソダンスやんけ!」
「歌もうまくないぞ!!」
この手の意見、多分に溢れてますね。
中には、ドラマ班としての役者、ダンス班としてのモブの分業による解決と解釈した方が居ますが、その解釈は、80%同意します。
私は、もっと深い部分に言及してると見ています。

ヒントは、主人公2人の芸術表現が、どちらも、個人技であること。
ミアは、一人芝居で、スターダムに駆け上がり、セブは、ピアノの独り語りでミアを迎えます。
そして、何より、それを描いているのは、ミュージカル映画というフォーマットなのです。
しかも、オープニングアクトのダンスシーンに2人は登場せず、実際に踊っていた方々は、その筋のプロで固めているのに、クレジットされていないモブ扱い。
これは、何を意味しているか?

もう一度、脚本の舞台に話を戻してみましょう。
オープニングの歌詞で、ちゃんと、言及されてるんです。「アートの街で成功して輝きたい」「今は芽が出ていないけど、明日は、また明日だ」「何度でも頑張るさ」。

しかし、勘のいい方は気づいてるでしょう。
あの車列の中に居る人間で、星になれるのは、ごく限られた一部の人間だけなのです。
むしろ、歌とダンスの才能に溢れるプロを敢えて「落とされ続ける恵まれない立場」のモブとして扱うという意地の悪さ…

芸術表現の究極系たる一人芝居(しかも脚本演出舞台構成迄個人技)で駆け上がるミアと対比させると、明らかに意図してやってますよね。
「ミュージカルは体裁です」と、しつこく念押しされてるとしか思えません。

それを分業体制の最先端である映画という手法で描いてるんです。
「昔のミュージカル映画は、役者が全部やっていた、本作はミュージカルを貶めた…」
ええ、その意見も判りますが、それは、本作を「ミュージカル映画」という先入観で見ているから。
受け手の感性の幅が狭い事を露呈してるだけですから、控えた方がよろしいかと存じます。

もっと、心を落ち着かせて、作品中の細部に散りばめられたヒントに目を向ければ、監督の意図はくみ取れるはず。

映画なんですから、その気になれば、踊りの部分を全部ボディダブルにして、モーションキャプチャー合成だって出来たわけですよ。
それをせずに、ヘタクソながらも踊らせたのは、むしろ、監督の温情じゃないのかな?

全ての要素は、監督が描きたい世界を忠実に再現する為の部品でしかありません。
主役2人が、踊りも歌もヘタクソなのは、「ミュージカルが本題じゃないからね」という念押しです。(2回目)


これ以上書くと、ただでさえ毒舌なのに、ますます嫌われそうなのでこの辺でヤメておきます。






<最後に最大級のネタバレ>

劇中に主人公による「ジャズは、個々の演者による、主導権の奪い合い云々」って台詞が出てくるんですけど、そのまんま、ミュージカルナンバーで表現されるシーンがあるので、劇場で耳かっぽじって聴いて下さいね。

ずばり、ミア達が、戦闘服に着替えてパーティに出かけるシーンのクライマックスパート。
何度も同じようなメロディが繰り返される箇所があります。
これがしつこいくらいのリピートなんですけど、繰返しの度に、リード担当の楽器が変わっていってるんですよ。


つまり、従来、映画的文法とは「脚本上の重要箇所を画の構成で語る事」を指していましたが、本作では、ジャズ演奏をモチーフに使う事で、「音響効果による映画的文法」を積極的に取り入れているのです。

かなり大胆、かつ、面白い取り組みですが、映画館の音響設備に対する挑戦状みたいな感じもします。
(劇中でレトロ映画館が潰れちゃうのは、この演出に対する自己言及かも…)

余裕のある方は、通常スクリーンとIMAXで聴き比べてみて下さい。
相当、解釈の違いが露になっちゃうんじゃないかな?


あと、2人の物語の顛末も、「優れた才能同士だからこそ起こりうる、成長と衝突、それを乗り越えた上での帰結」になってます。
この過程と帰結の流れは、私の目には、「ラブロマンス」よりも、むしろ、才能あふれる者同士が切磋琢磨/衝突した先に、互いの成功と和解を手にする「バディムービー」に映りました。

このプロットも、まんま、主人公が説明した「ジャズの定義」に則ったもの。
監督、どんだけ、ジャズ好きなんだよ。いーかげんにしろよ(褒め言葉)。

なお、古典的なミュージカル作品の音楽は、基本ジャズだそうで、その方面に詳しい方は、旧作へのオマージュ満載に涙がちょちょギレルそうです。

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