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2017年03月01日00:39

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3月1日の日記

今日の出来事:1476年−塩買坂の戦い、1865年−天狗党の乱:天狗党斬首、1868年−戊辰戦争:刈谷藩三家老殺害事件、1896年−アンリ・ベクレルが放射線を発見、1921年−クロンシュタットの反乱、1942年−第二次世界大戦:スラバヤ沖海戦(第二次)、バタビア沖海戦、1954年−第五福竜丸事件

今日は、塩買坂の戦いです。1454年、「享徳の乱」で室町幕府より今川氏へ鎌倉公方・足利成氏討伐が命じられました。今川義忠は、父・範忠の名代として出陣して鎌倉を攻略し、8代将軍・足利義政より感状を受けました。この時に、元服して将軍・義政の「義」の字を受けて義忠と名乗りました。1461年、父の危篤を受けて駿河守護職を継承しました。1467年に「応仁の乱」が起こると、足利政知と相談の上で1000騎を率いて上洛しました。山名宗全は今川義忠を西軍を引き入れようとしましたが、将軍警固のために上洛した事を理由に東軍が占拠している「花の御所」へ入り、そのまま東軍に属しました。対立している遠江守護・斯波義廉が西軍であったために東軍に属したと考えられています。この上洛中に、伊勢新九郎(後の北条早雲)の姉・北川殿と結婚しました。北川殿との間には1473年に嫡子・龍王丸(後の氏親)が生まれました。1468年、細川勝元の要請で東海道の斯波義廉の分国を撹乱するため、駿河へ帰国しました。今川義忠は、遠江への進出を図り、斯波氏や在地の国人と戦いました。1473年、東軍の三河国守護・細川成之が美濃国守護代格・斎藤妙椿から攻撃を受けたため、将軍の命により三河へ出陣しました。将軍から兵糧用として預けられた所領を巡って、同じ東軍の尾張国守護・斯波義良や三河の吉良義真の被官となっていた遠江の国人・巨海氏、狩野氏と対立して、これを滅ぼしました。そのため、斯波義良、細川成之と敵対する事になりました。1475年、東軍は西軍の斯波義廉の重臣・甲斐敏光を寝返らせて遠江守護代として、今川義忠と敵対しました。今川義忠は遠江へ出陣して、斯波義良方の国人と戦いました。1476年、遠江の国人・横地四郎兵衛と勝間田修理亮が今川義忠に背き、斯波氏に内通して見付城を修復して抵抗したため、500騎を率いて出陣して横地城と勝間田城を囲んで、両人を討ちました。その帰途の夜、遠江小笠郡塩買坂(現在の静岡県菊川市)で横地氏と勝間田氏の残党による一揆に不意を襲われました。今川義忠は馬に乗って指揮をとりましたが、流れ矢に当たって討死しました。この今川義忠の死により、僅か6歳の龍王丸(後の氏親)が残されました。この後、今川氏は義忠の従弟・小鹿範満が家督継承を主張して内紛状態になり、それを調停するために北川殿の弟で幕府申次衆の伊勢新九郎が駿河へ下向しました。この事が伊勢新九郎と今川氏との絆を強め、後の関東進出と後北条氏誕生のきっかけになりました。

次に、天狗党の乱:天狗党斬首です。水戸藩「天狗党」828名のうち、352名が処刑される事になりました。1865年3月1日、武田耕雲斎ら幹部24名が来迎寺境内で斬首されたのを最初に、12日に135名、13日に102名、16日に75名、20日に16名と、3月20日までに斬首を終え、他は遠島・追放などの処分を科されました。処刑された主な人物は以下のとおりです。
武田耕雲斎、田丸稲之衛門、山国兵部、藤田小四郎、武田彦衛門、武田魁介、根本新平、川上清太郎、秋山又三郎、高橋市兵衛、小野藤五郎、芹澤助次郎、瀧口六三郎、岩間久次郎、玉造清之允、安東彦之進、桑屋元三郎、金澤要人、二方舎人、大島官壽、本田佐久之介、澤田信之介、片岡源次、楠帯次郎、高瀬秀之介、津久井衛門七、白須権次郎、堀江一壽、小泉虎次郎、小泉芳之介、津村雄二郎、栗田源左衛門、平野重三郎、荘司与次郎、寺門左太吉、鈴木秀太郎、関雄之介、黒澤新次郎、相田健之介、松崎熊之介、安東正之介、飯村慎三郎、安島鉄次郎、篠原造酒、北川元三郎、藤田秀五郎、小田部重平、高橋辰三郎、森荘三郎、阿久津蔵之介、小林蘆左衛門、大高要介、小林貞七郎、加藤木総吉、加藤木勇之介、川澄善兵衛、堤三之助、谷島福次郎、中崎貞介、中庭直三郎、川津丑之介、梶山敬介、青木源之允、青木源吉、安掛藤十、安清四郎、小沼義太郎、登戸佐兵衛、幡谷善七、小貫藤介、皆川亀松、小澤弥一郎、森山勝蔵、浅野善十郎、前島竹次郎、加藤卯之介、栗又鉄之介、内藤利兵衛、卯月七之介、飯島喜介、山澤啓介、長峰寅松、藤田理兵衛、坂本勝次、鈴木荘三郎、岡野亀太郎、小松崎荘之介、小沼栄介、田村長衛門、山田才介、金澤啓蔵、坂本啓介、樽井総吉
首級は塩漬けにされた後、水戸へ送られ、水戸城下を引き回されました。更に那珂湊にて晒され、野捨とされました。「天狗党」降伏の情報が水戸に伝わると、水戸藩では市川三左衛門ら「諸生党」が中心となって、「天狗党」の家族らをことごとく処刑しました。一方、「天狗党」に加わって遠島処分となった武田金次郎(武田耕雲斎の孫)以下110名は、小浜藩に預けられて謹慎処分となりました。小浜藩は彼らを准藩士格として扱い、佐柿に収容のための屋敷を建てて厚遇しました。1868年に「戊辰戦争」が勃発すると、武田金次郎ら「天狗党」の残党は、長州藩の支援を受けて京に潜伏していた「本圀寺党」と合流し、朝廷から「諸生党」追討を命じる勅諚を取り付けました。「天狗党」と「本圀寺党」(両者を併せて「さいみ党」と称した)は水戸藩庁を掌握して報復を開始し、今度は「諸生党」の家族らがことごとく処刑されました。水戸を脱出した「諸生党」は「北越戦争」、「会津戦争」等に参加しましたが、これら一連の戦役が新政府軍の勝利に終わると、水戸城下に攻め寄せましたが失敗に終わりました(弘道館戦争)。彼らは更に下総へと逃れて抗戦を続けましたが、「松山戦争」で壊滅しました。こうして市川三左衛門ら「諸生党」の残党は捕えられて処刑されましたが、武田金次郎らはなおも「諸生党」の係累に対して弾圧を加え続け、水戸における凄惨な報復・私刑はしばらく止みませんでした。水戸学を背景に尊王攘夷運動を主導した水戸藩でしたが、藩内抗争により人材をすべて失ったため、藩出身者が創立当初の新政府で重要な地位を占めることはありませんでした。

その次に、戊辰戦争:刈谷藩三家老殺害事件です。三河刈谷藩(藩主・土井利教)は、「戊辰戦争」の勃発前から恭順か否かで大きく揺れ、勃発後も藩内抗争が激しくなっていました。しかし、状況はすでに新政府側に有利と判断した重臣・倉田圭太郎ら18人の藩首脳は,藩論を恭順に統一するため、二月八日夜に反政府派と目された三人の家老、多米新左衛門・津田新十郎・黒田浜右衛門を刈谷城外で殺害しました。首級を挙げると、直ちに尾張藩に運びました。それは、すでに新政府軍側に立った尾張藩に首を示す事で、刈谷藩も新政府側に立った事を示し、新政府軍への取りなしを頼んだのでした。こうして刈谷藩は、新政府に恭順しました。

その次の次に、アンリ・ベクレルが放射線を発見です。アンリ・ベクレルは、フランスの物理学者で放射線の発見者です。この功績により、1903年にノーベル物理学賞を受賞しました。1896年、ウラン塩の蛍光を研究中に、ウランが放出した放射線(アルファ線)が写真乾板を露光させる事を発見しました。ベクレルは偶然放射線を発見したとはいえ、あくまでも蛍光の研究に結びついた発見でした。最初のきっかけは、1895年11月にドイツのレントゲンが発見した「X線」でした。ベクレルの同僚であったポアンカレは、1ヶ月後に入手したレントゲンの論文をベクレルに手渡しました。この時にポアンカレは「X線が蛍光を生じるなら、蛍光から何らかの放射線が発生するかもしれない」とベクレルに話しました。実験を始めると、太陽光に当てたウランの硫酸カリウム塩が燐光を生じる事をすぐに確認できました。さらに、太陽光にさらしたウラン塩を黒い紙で包んでも写真乾板が感光する事を1896年2月に発見しました。最後の幸運は曇天が続いて実験ができなかった事でした。実験再開に備え、ベクレルはウラン塩と乾板を一緒にしまっておきました。ところが実験を再開する前に確認すると、乾板が既に感光している事に気づいたのでした。ウランが発しているのが何らかの放射線である事を、空気の電離によって確認しました。ウランの濃度に対する放射線の強度の分析や、ウラン以外の放射性元素の発見はピエール・キュリーとマリ・キュリー(キュリー夫妻)によります。放射能のSI単位「ベクレル(Bq)」はアンリ・ベクレルからきています。1908年、ブルターニュ半島で55歳の若さで急死しました。マリ・キュリー(キュリー夫人)同様、放射線障害が原因だと考えられています。

そのまた次に、クロンシュタットの反乱です。1921年にペトログラード西方の軍港都市・クロンシュタットで起きた水兵たちによる反政府蜂起です。バルト海艦隊の拠点であるクロンシュタットの水兵たちは、当初は「ボリシェヴィキ」がロシア革命を進める上での重要な支持者でしたが、次第に「ボリシェヴィキ」と水兵の意見の相違が大きくなりました。1921年、独裁化する「ボリシェヴィキ政権」に対し、クロンシュタットの水兵たちは、戦艦「ペトロパブロフスク」の船上で開かれた乗組員集会で、言論、集会の自由や、農業や家内工業における統制の解除、すべての政治犯の釈放、すべての勤労人民の配給量の平等化などを要求する15項目の決議を採択しました。水兵たちが蜂起するに及び、モスクワ政府は赤軍部隊を派遣しました。当時、ロシア共産党政治局員の一人でペトログラード・ソヴェト議長だったジノヴィエフは、ただちにクロンシュタットに軍を送り、トゥハチェフスキーの指揮の下で部隊を編成しました。しかし、赤軍の兵士が反乱軍に同情して攻撃命令を拒否すると、鎮圧軍は従わない兵士を形だけの裁判で銃殺しました。さらに、チェーカーが兵士の傍に付き添って、戦闘中に逃亡した兵士は射殺する命令を出しました。赤軍は2度にわたる総攻撃で反乱を鎮圧しました。当時、軍事人民委員・最高軍事会議議長だったトロツキーは「クロンシュタットは鉄の箒で一掃した」と発表しました。赤軍側は4000人以上の戦傷者を出しました。一方、反乱側の死傷者の数は不明ですが「共産主義黒書」によれば鎮圧後2103人が死刑の判決を受け、6459人が投獄されたと言われています。また、8000人の反乱軍兵士がフィンランドに亡命しました。「十月革命」の拠点で起きたこの事件の影響は大きく、ネップ(新経済政策)への政策変更を早めました。

そのまた次の次に、第二次世界大戦:スラバヤ沖海戦(第二次)です。スラバヤに帰投した連合軍艦艇は、惨憺たる有様でした。2月28日午後6時、夕焼けの中をイギリス重巡洋艦「エクセター」は「ポープ」、「エンカウンター」を従えて出港しました。「ヴィテ・デ・ヴィット」は艦長が乗員に半舷上陸の許可を出していたため、出港に間に合いませんでした(この艦は3月2日に日本軍の空襲により撃沈)。3月1日午前11時40分、「エクセター」は駆逐艦「曙」を発見しました。「エクセター」は砲撃し、「曙」は逃走しました。やがて、重巡「足柄」、「妙高」、駆逐艦「雷」が現れました。「エクセター」は東方への逃走を図り、「エンカウンター」、「ポープ」と共にスコールの中に飛び込みました。短い嵐が去った時、イギリス艦隊は包囲されていました。重巡「那智」、「羽黒」が「エクセター」に攻撃をしました。「那智」と「足柄」は主砲弾を撃ち尽くし、「エクセター」に火災が発生しました。午後12時54分、動力を全て失った「エクセター」は航行不能となり、主砲も動かなくなりました。「エクセター」の艦長O・L・ゴードン大佐は総員退去を命じ、乗組員は海に飛び込み始めました。駆逐艦「雷」が「エクセター」に肉薄して魚雷を発射し、一本が「エクセター」の右舷に命中しました。続いて「足柄」、「妙高」も砲撃を開始しました。止めを刺された「エクセター」は午後1時30分、右舷に転覆して沈没しました。日本軍は残った「エンカウンター」、「ポープ」の追撃を行いました。「羽黒」、「那智」は高角砲を用いて駆逐艦2隻を砲撃しました。まず、「エンカウンター」が集中砲火を浴び、完全に戦闘不能となりました。モーガン艦長を含めて乗組員の殆どが脱出し、「エンカウンター」は戦死者7名と共に午後1時38分に沈没しました。「ポープ」はスコールに逃げ込んで、日本艦隊の追撃から離脱する事に成功しました。「ポープ」は、午後3時5分、カリマタ海峡を南下中だった軽空母「龍驤」から発進した「九七式艦上攻撃機」6機に攻撃されました。爆撃を受けた「ポープ」は回避運動により浸水が酷くなり、遂には艦尾が沈下してしまいました。「ポープ」の艦長W・C・プリン中佐は艦を諦めて総員を退去させました。全員が退去し終わった直後、「足柄」と「妙高」が接近し、停船している「ポープ」に砲撃を始めました。午後3時30分、「ポープ」は大爆発を起こすと僅か15秒で沈んでいきました。「エクセター」の乗組員376名が3月1日に駆逐艦「電」に救助されました。翌3月2日、駆逐艦「雷」の艦長・工藤俊作による「敵兵を救助せよ!」の命令により、「エンカウンター」、「ポープ」の乗組員422名が救助され、翌日にパンジェルマシンに停泊中のオランダ病院船「オプテンノート」に捕虜を引き渡しました。

さらに次に、第二次世界大戦:バタビア沖海戦です。「スラバヤ沖海戦」で敗れた連合軍の残存艦隊のうち、アメリカ海軍の重巡洋艦「ヒューストン」とオーストラリア海軍の軽巡洋艦「パース」は、「スラバヤ沖海戦」で戦死したドールマン少将の最期の命令により、「パース」艦長のヘクター・ウォーラー指揮下でジャワ島のバタビア(現・ジャカルタ)に撤退しました。ジャワ島バンタム湾バビ島付近に差し掛かった時、前方に日本軍の輸送船団を発見しました。両艦はこれを攻撃するため、突撃を開始しました。しかし、バビ島東方で哨戒を行っていた駆逐艦「吹雪」に発見されていました。「吹雪」は後方を追尾し始め、敵艦の行動を逐一報告していました。一方、セントニコラス岬沖合いで哨戒中の軽巡「名取」、駆逐艦「初雪」、「白雪」、さらにパンジャン島沖合いを哨戒中の駆逐艦「春風」にも発見されました。軽巡「名取」の司令官・原顕三郎は一刻の猶予も無いとして第三護衛隊全艦に対して集結命令を出した上で、北方沖合を哨戒中だった重巡「三隈」、「最上」、駆逐艦「敷波」に対しても直ちに集合するよう命じました。原司令官は迎撃準備を整える一方、戦闘は「名取」と駆逐隊で広い海面に誘い出し、味方船団からも引き離した上で一挙に戦力を集中して撃滅する方針を立てました。後方を追尾していた駆逐艦「吹雪」が「ヒューストン」に魚雷9本を発射し、更に12.7センチ主砲で砲撃を開始しました。原司令官は、これを救援するため麾下の駆逐隊に対して「駆逐隊突撃せよ」と下令しました。まず、「初雪」、「白雪」が接近すると魚雷を各艦9本、計18本を発射しました。次に「朝風」が6本の魚雷を発射、軽巡「名取」も砲撃しながら魚雷4本を発射しました。その後、重巡「三隈」、「最上」が攻撃に参加し、アメリカ重巡「ヒューストン」を攻撃しました。「ヒューストン」は次々と命中弾を受けました。「春風」が魚雷6本を「パース」に向け発射、更に「旗風」も魚雷6本を発射しました。「パース」はこれにより航行不能となりました。「最上」は「ヒューストン」へ向け魚雷6本を発射しました。この魚雷は後に問題となりました。「三隈」は「ヒューストン」に命中弾多数を確認後、「パース」に目標を変更しました。更に駆逐艦「白雲」、「叢雲」が航行不能の「パース」に向けて9本の魚雷を発射し、これが止めとなり「パース」は沈没しました。682名の乗組員のうち、ウォーラー艦長を含む353名が戦死、100名が捕虜生活中に死亡、229人が帰国しました。残った「ヒューストン」は、機関室への命中弾で機関科兵員が全滅、駆逐艦「敷波」が止めを刺しました。「ヒューストン」は既に艦長A・H・ルックス大佐が戦死し、副長が指揮を代行していましたが「敷波」の魚雷命中を受けて総員退去命令が下されました。そして、「ヒューストン」は転覆、艦尾から沈んでいきました。「ヒューストン」乗組員は1008名中、368名が日本軍に救助されましたが、そのうち76名は収容所内で死亡、266名が戦後に帰国しました。こうして、約2時間の戦闘で連合軍巡洋艦2隻を撃沈と日本海軍の一方的な勝利に終わりましたが、日本軍輸送船団を直衛していた「第二号掃海艇」が右舷缶室に魚雷1本の直撃を受けて轟沈しました。更に輸送船「佐倉丸」が沈没、その他輸送船3隻が大破着底という損害が出ました。第16軍司令官・今村均中将座乗の陸軍特殊船「神州丸」が含まれており、今村中将は海上へ投げ出されて3時間の漂流後に救助されました。これらは「最上」が発射した魚雷が敵艦に命中せずに、そのまま射線延長線上の輸送船団に到達した可能性が高い事が判明しました。更に陸軍の上陸点付近で「九三式魚雷」の尾部が引き上げられると、第3護衛隊司令部は味方の誤射と判断しました。「スラバヤ沖海戦」に参加した艦艇で脱出に成功したのは、バリ海峡の突破に成功したアメリカ海軍の駆逐艦4隻のみでした。その他、多くの小艦艇がオーストラリアやセイロン島を目指して脱出を試みましたが、アメリカ駆逐艦「エドソール」のようにほとんどは撃沈されました。第16軍は3月1日にジャワ島各所に上陸し、8日にはオランダ軍が降伏、10日にジャワ島の要地バンドンを陥落させました。こうして、蘭印を掌握した日本軍は「インド洋攻撃」を行います。

最後に、第五福竜丸事件です。「第五福竜丸」は、1954年3月1日にアメリカ軍の水素爆弾実験によって発生した、多量の放射性降下物「死の灰」を浴びた遠洋マグロ漁船です。日本で「反核運動」が起こるきっかけになりました。マーシャル諸島近海のビキニ環礁でアメリカの水爆実験が行われました。「第五福竜丸」はマーシャル諸島近海を操業中にビキニ環礁で行われた水爆実験(キャッスル作戦・ブラボー)に遭遇し、船体・船員・捕獲した魚類が放射性降下物に被爆しました。実験当時、「第五福竜丸」は米国が設定した危険水域の外で操業していました。危険を察知して海域からの脱出を図りましたが、延縄の収容に時間がかかったため、数時間に渡って放射性降下物の降灰を受け続ける事となりました、「第五福竜丸」の船員23名は全員被爆しました。後に米国は危険水域を拡大、「第五福竜丸」以外にも危険区域内で多くの漁船が操業していた事が明らかとなりました。この水爆実験で放射性降下物(死の灰)を浴びた漁船は数百隻に上るとみられ、被爆者は2万人を越えると言われています。予想以上に深刻な被害が発生した原因は、米国がこの爆弾の威力を4〜8Mtと見積もり、危険区域を狭く設定した事でした。爆弾の実際の威力はその予想を遥かに超える15Mtであった為、安全区域にいたはずの多くの人々が被爆する事となりました。「第五福竜丸」は、実験海域での被爆の事実を隠蔽しようとする米軍に撃沈される事を怖れ、救難信号(SOS)を出さずに自力で焼津港まで帰港しました。「第五福竜丸」が米軍による水爆実験に巻き込まれて被爆した出来事は、日本国内で「反核運動」が萌芽する動機になりました。「反核運動」が「反米運動」へと転化する事を恐れた米国政府は、日本政府との間で被爆者補償の交渉を急ぎました。当時、アメリカに頭の上がらなかった日本政府は、「アメリカの責任を追及しない事」を確約し、1955年に200万ドルが支払われました。しかし、「賠償金」でなく「見舞金」として支払われました。また、事件が一般に報道されると、焼津では「放射能マグロ」による風評被害が発生しました。この時の被爆マグロは、今も築地市場の地下に埋められており、「原爆マグロ塚」が建てられています。地下鉄大江戸線の工事では、このマグロが出土するのではと騒がれました。「第五福竜丸事件」の被爆者22名の事故後の健康状態調査は、放射線医学総合研究所により長期継続的に行われています。2004年までに12名が死亡しました。その内訳は、肝癌6名、肝硬変2名、肝線維症1名、大腸癌1名、心不全1名、交通事故1名です。また、生存者の多くには肝機能障害がありました。焼津の漁船「第五福竜丸」の水爆実験による被爆は、長崎への原爆投下に次ぐ「日本を巻き込んだ第三の原子力災害」となり、日本は原子爆弾と水素爆弾の両方による原子力災害を経験した国となりました。そして、「第五福竜丸」の被爆、特に久保山愛吉無線長(当時40歳)が「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と遺言して死んだ出来事(1954年9月23日)は、日本で「反核運動」が始まる動機になりました。東京都杉並区の主婦による「反核運動」や、1955年に設立された原水禁に代表される「反核兵器運動」も、この「第五福竜丸事件」が動機となりました。「第五福竜丸」が浴びた放射性物質とその被害は、「ゴジラ」が制作される動機になりました。

今日の誕生日:結城秀康、フレデリック・ショパン、芥川龍之介、有島一郎、南田洋子、加藤茶(ザ・ドリフターズ)、徳弘正也、柱谷幸一、川崎麻世、相楽晴子、中山美穂、西川弘志、小島聖、真栄田賢(スリムクラブ)、井上裕介(NON STYLE)、五郎丸歩、成田梨紗(元AKB48)、サクラショウリ、アローキャリー、アドマイヤジュピタ、リアルスティール

今日の記念日:ビキニ・デー、自傷行為防止啓発の日、デコポンの日、未唯mieの日、マヨネーズの日

今日の「今日訓」:本日から3月「弥生」です。弥生とは「木草弥や生ひ月」(草木がいよいよ生い茂る月)が縮まってこう呼ばれるようになりました。1954年3月1日に、太平洋のビキニ環礁でアメリカが核実験を行い、「第五福竜丸」が被曝した事から「ビキニ・デー」、世界で反核集会等が行われます。1991年3月1日に、デコポンが熊本果実連によって初めて出荷された事から「デコポンの日」、3と1で「未唯mie」と読む語呂合わせから、元ピンクレディーの「ミー」事、「未唯mieの日」、1925年にキューピーが日本で初めてマヨネーズを製造販売した事で「マヨネーズの日」となりました。
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