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2017年02月21日01:45

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中国の言う礼と、日本の言う礼とでは少し違う

主従の礼、師弟の礼、親子兄弟の礼、長幼の序、と言葉で表せば似ている。
いずれも儒教を基盤にしているが、日本と中国とではかなり大事なところで違っている気がする。

中国の場合、礼とは序列なのではないかと思う。
儒教のそもそもの考え方はそれで、小さくは親子関係から大きくは国際関係まで、
礼とは序列を重んじ、分限にあった振る舞いをすることを言う。

この国際関係というのが大事で、つまり教化の範囲内においては、
元々儒教に基づいて厳格な上下関係が敷かれていた。
しかしその中国的統治, 身分制度の及ばない化外の地については、礼を尽くす対象外。
先方が中国の儀礼に基づいて臣従の態度を示してきた時のみ、
主君として相応の礼をとる、という考え方が基本にあったように思う。

革命後、中国には公式に儒教の排除を試みた時期がある。
ただ長年培われた習俗がそうやすやすと改まる訳でもなく、
今も中国には儒教に起源を持つ秩序が息づいていると思う。

ところで中国人は面子を重んじ、体裁を重んじ、恥を嫌うと言われることがある。
一方で中国人観光客などを例に挙げ、中国人は見知らぬ人、見知らぬ土地においては傍若無人の、言い換えると恥知らずの振る舞いをするとも言われることがある。
これは一見すると矛盾するようだけれど、ここに上記の国際的な序列の話を加味してみると、納得できるかもしれない。

つまり、他人を序列の中に置く訳だ。
国際関係と同様に、遠近関係で。

親兄弟、師弟、友人などは最も身近な人物であり、"教化"に擬えれば最も内側の階層に位置する。
その中にあって親や師を敬わないのは失礼だし、子や弟子や友人知己の前で不躾な振る舞いをすることは、
品を保つべき立場にそぐわない振る舞いをしている訳で、体裁が悪い。
が、ちょっと知っているだけの人物はそれよりは外側になり、礼の対象としての重要度は下がる。
さらに見知らぬ人物、特に外国人などは、自分自身との関係のないさらに外側の人物であり、
もはや序列の外なので礼を尽くす対象外となっているのではなかろうか。

とはいえ、別に中国人が人と話すときに無礼な態度をとるという訳ではないとは思うが。
単に人目を気にしないというだけで、話をする時にはそれで一応の関係性が築かれるためか、
よほど変な奴でない限り見知らぬ人には一応気を遣っていると思う。
少なくとも今までに会った中国人はね。



一方で、日本。

日本も儒教的な礼、あるいは序列を中国から輸入して自国の倫理観に取り入れてはいる。

ただ、日本の場合儒教をまるまる取り入れるのはおそらく都合が悪かった。
そのまま取り入れたら、日本は中国王朝の化外の地であり、外臣ということになってしまう。
中国の文化文明を取り入れる気はあるが、従属する必要性までは感じていなかった日本としては、
国際関係における序列は、言い換えると遠近の区別は輸入しなかったのではなかろうか。

結果として、礼を尽くす範囲は距離に関係なく自分自身以外の人物ということになり、
見知らぬ人にはとりあえず礼を尽くすという習俗ができあがったのかもしれない。



尤も、それも昔ほど厳密ではないと思うけれどね。

例えば公共の場で化粧をすることについて賛否あるそうだが、これはそれを反映している気がする。

否定する見解としては、この従来の習俗に基づき、公衆を礼を尽くす対象と見做しての話。
つまり化粧や身なりは公衆の前に出る前に整えるべきで、出てからするのは体裁が悪いとする。
許容する見解としては、この従来の習俗に囚われず、公衆を礼を尽くす対象外と見做しての話。
つまり公衆は自身と無関係の存在であり、体裁を整える必要はないとする。

そんな感じの背景があるような気がする。



「礼節や礼儀を重んじる国」という称号は今や日本のものに=中国報道
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=97&from=diary&id=4441898
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