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2017年02月07日07:00

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マディソン群の橋を観て思うこと

朝は3時か4時頃に目が醒める、私は何時ものようにTVを点ける引っ越してCATVを付けたので番組表を観る、この時間に何をオンエアしているのだろう?24時間映画をオンエアしているのでそれをチエックするのが楽しみになっている今朝は『マディソン郡の橋』(The Bridges of Madison County)を選んだ、この映画を観た時、泣きそうになったことを覚えている、1960年代のアイオワ州マディソン郡に住む、結婚はしているがこころに空洞を持っている主婦(メリル・ストリープ)の家に米国では昔あった珍しい屋根付橋のフォトエッセイを書くため『ナショナルジオグラフィック』の写真家(クリントン・イーストウッド)が道の迷い新しい風のように現れ家の近くの屋根付橋の写真を撮りたいと言う日光の光の変化を撮りたいのだが、この街にはホテルも無く困っていると言う、主婦は今、主人と子供たちが旅行に出ているが戻るまで部屋が空いてるからと言う、田舎の街で知らない男を滞在させるのは、噂がたちやすいのでそれに気を付けてもらえればという条件で、イーストウッドを滞在させることに、その日ストリープは街に出て食料品を買い、何年か振りに綿のドレスを買った、
田舎の主婦が少しドキドキしながら普段着られるドレスを選ぶ仕草を細かく撮る監督はイーストウッド上手いものである、イーストウッドの最新作『ハドソン川の奇跡』を観たが
何時の間にこのような傑作を撮れる監督になったのだろうと関心した見事な構成無駄なものが入っていなくタイトな仕上がり近年イーストウッドの監督作品は褒められているが
私はこの『ハドソン川の奇跡』は賞賛に与えすると思う、見事です。このイーストウッド
が初期の頃に撮った『マディソン郡の橋』も観るとこ満載である、ストリープが食事の準備でキッチンに立って居ると、手伝うよと言い自然にストリープの横に立つ手際良く人参を切ったり、ネギの端を取ったりするその慣れた手捌きに驚くストリープ田舎ではキッチンに立つ男はいない、清々しい風に吹かれた気分になるストリープ、二人はテーブルで食後のお茶を飲んでいるイーストウッドは仕事でアフリカに行った時の面白話をしている、
私はこの田舎で産まれ、結婚して外国には行ったことはないと言うストリープ、よく考えると、この家にはTVがない昔の米国の田舎というのはそうゆうものだと思う夕食が終わると本を読むか手紙を書くか、家族と話すしかない世界その夜ストリープは寝室の姿見の前でヌードになり中年になった自分の裸を点検するように観る、そして買って来たドレスを当てて見る、イーストウッドは夜家を出て明け方の橋を撮りに・・ストリープは紙に夜、白い蛾が羽を広げる頃に待っていますと詩から引用した文を書き紙を屋根付き橋の袂にピンで止めるイーストウッドは撮影している時にその紙に気づきメモを読む、帰宅して家ではストリープが新しいドレスを着て待っているその姿を見て、「息が止まるほど美しい」と言うイーストウッド、その言葉で魔法にかけられたように輝き美しく見えるストリープ
二人は宿命のように結ばれる・・
https://www.youtube.com/watch?v=3QuJfbF1Ehc
この時思うのだがTVのない世界で育つと人は詩的になるこのような科白や紙に書かれた文などは日常出ないものである、人は他の動物と違い脳が発達したため本能だけで生きることはしない、動物は発情する時があり発情期に発情する
人は考える力が放物より勝っているので幻想を見ることが出来る、人は何歳になっても恋におちることが出来る、それは幻想を持っているからである、吉本隆明の『共同幻想論』によると人が恋をする行為は対幻想があるからと名づけてる男女二人の共同幻想は恋でそれを対幻想とした、家族の繋がりを幻想としてその幻想の最大公約数の幻想は国家になるだから人は幻想がなければ生きられないと言う結論に達する。
人は動物より大きな脳を持っているため本能が壊れた動物だというだから発情期ではなく一年中恋が出来る結ばれた後男は生涯で一番本気の愛だと3日後に夫と子供たちが戻ってくる、ので泣いた目になっている女、それを察しこの田舎を捨て家から私と共に出なかと言う、泣きながらそれは出来ないと言う女
このような極局な選択に立たされたメリル・ストリープの演技は上手い、
今陳腐なことを書いてしまった、私はメリル・ストリープの下手な演技を観たことがない。
男は夫と子供が戻る一日前に家を出ていった、それから数日が過ぎ
女は夫の車に乗り買い物に街へ出る雨が降って来た、向かいの通りに停めている車から降りて来るのは別れた男、男は車に乗ってるのはストリープだと確認出来るまで近づきて来るが確認出来ると踵を返してもう近寄ってはいけないと思わすように車に戻っていったそんな男の姿を観た女はあの恋は終わったと思った夫が戻り、車を出す、女は叫び声を上げ泣きたくなるが夫の横で突然泣く事はできない堪えるだけ堪えるストリープ、私はこの演技を見て泣きたくなったのだと確認した、
https://www.youtube.com/watch?v=jAqyy-OJrec

『マディソン郡の橋』(The Bridges of Madison County)は、1992年米国で発売されたロバート・ジェームズ・ウォラーの同名ベストセラー小説世界的にベストセラーになった
予想外に売れた小説だったこの二人がどうなったのか?の続編は2005年、に『マディソン郡の橋 終楽章』を書ている。映画はそれも含めたラストシーンが描かれているこの原作を映画化するには誰を主演にしたら好いのか?製作側は考えただろうと思う、それでクリントン・イーストウッドである、適役だと思う、相手はイーストウッドに似合うベテラン女優
それでメリル・ストリープになった、見事なキャステングであるこれで失敗のリスクは避けられる、最近好い印象のある映画はCATVで二度見るようにしている、見直すと
いかに私が印象的シーンしか覚えていないことに驚く、また当時理解していなかったとこばかりと考えること一入、私は 病気をして療養中に自分がしてきたことを思い出し考えた、映画のことが思い浮かぶだけだった、何故私は観た映画の記録を書いていなかったのだろうと思っていた何時、何処で見て何を考えたのか?やはり印象しか思い浮かばない若い時、私にそのような力がなかったとだだから書くことが出来なかった、もし的確なものを書いていたら私は監督に成れてたかもしれない?と思い至った、それで観たものを
記録している今、遅かりしであるが・・・道を歩くのに手遅れということはない、近道を探して歩く、何処か省略して歩く結果はNGが待っている一歩一歩歩き進んで行く他ないのである、人生と言うのはそんなものである。と思っている。






https://www.youtube.com/watch?v=gigCQkSon2s&list=RDgigCQkSon2s




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