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2017年02月06日18:02

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【びっくり沖縄史】中国人外交エリート村・久米村(クニンダ)

相前後してしまって恐縮だが、琉球王朝期の「久米村」とその人々についてはしっかり説明しておく必要がある。

話は1392年にさかのぼる。

当時の沖縄島は、北山、中山、南山の三つの王国に分かれ、覇を競い合っていた。ちょうど、中国では明国が興隆しており、三つの王国に使者を派遣して朝貢、冊封を勧めた。三国は競って朝貢を決めた。

この時、中山王・察度(さっと)の要請で、明の洪武帝が語学はもとより、外交文書の作成、通商、航海等の技術者として派遣したのが「閔人(びんじん)三十六姓」(久米三十六姓)と言われる中国人の集団である。三十六というのは「多くの」という程度の意味で、正確なものではない。この人たちは福建省の出身であったが、実際は「客家」(はっか)といわれる人々だともいう。

客家の人たちは東アジア、東南アジア一帯に「華僑ネットワーク」を持っており、外交、通商に有利であった

この人たちは、尚氏王統時代、那覇(当時の首都は首里であり、那覇はその外港であった。今で言えば横浜のようなところである。)の一部、久米村(くめむら、沖縄語でクニンダ)という地域(現在の那覇市久米)に代々集住した。(当時の那覇は東村とか西村とか、街区を村と呼んでいた)。
この人たちは、普通の王族(王子、按司)、士族(サムレー)とは違った位階のシステムで遇されるテクノクラートであった。
若秀才ー秀才ー通事ー副通事ー都通事ー中議大夫ー正議大夫ー紫金大夫(親方を名乗る)の順で出世した。紫金大夫の中から久米村全体を統括する「総理唐栄司」が選出された。

しかし特に優秀な者はこの枠にとらわれず、事実上の琉球王朝行政トップの三司官にまで上り詰めるものもいた。薩摩の琉球侵攻時の三司官、謝名親方利山(鄭迥=ていどう 親中、反薩摩派。薩摩への服従を拒否して処刑される)、18世紀に大政治改革を行った三司官・蔡温(具志頭親方文若=親薩摩派、財政再建、経済復興に成果をあげる。)がそれである。また、第一尚氏時代の懐機は「国相」として国王のブレーンを務めた。

政治以外の分野で活躍したものもいる。
教育者としては、中国から道徳書「六諭衍義(りくゆえんぎ)を自費出版して琉球に持ち帰り、薩摩経由で徳川吉宗に伝えた程順則(名護親方寵文)。この六諭衍義はその後、日本全国の寺子屋の教科書とされた。この人は「明倫館」という学校も建てている。「名護聖人」と尊敬され、いまも名護市に銅像が立っている。

また、医学で活躍した魏士哲(高嶺徳明)は全身麻酔の技術を中国から輸入し、三つ口の王子(のちの尚益王)を治療した。

琉球処分に強く抵抗したのも久米村出身者が多かった。これは、大テーマなので、稿を改めて書くことにしよう。

のちに沖縄学を唱えた伊波普猷(いはふゆう)、真境名安興(まじきなあんこう)が出した「琉球の五偉人」には蔡温と程順則の二人が挙げられている。久米村の人たちがいかに大きな役割を果たしたかを象徴するものであろう。
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