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2017年01月30日21:58

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メモ売血 若き12人の医学生たちはなぜ闘ったのか 第1章 ライシャワー事件は起こるべくして起こった      −黄色い血の恐怖

売血 若き12人の医学生たちはなぜ闘ったのか

第1章 ライシャワー事件は起こるべくして起こった
     −黄色い血の恐怖 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/9043/baiketsu/text1-1.html


「どうだろう、みんな! 俺たちで売血を追っかけてみないか」

 ほんのいましがた講義が終わったばかりの、ほっとした解放感が漂う古い木造の階段教室である。帰り支度でざわつき出した級友を制するように、クラス委員の松本が切り出した。
 話の発端は「ライシャワー事件」である。
 ライシャワーというのは、ケネディー大統領の要請で1961年に赴任した駐日アメリカ大使、エドウィン・オールドファザー・ライシャワー氏のことだ。
 宣教師を父にもつライシャワー氏は、東京で生まれ、16歳まで日本で育った。日本語は堪能で、アメリカ人の誰よりも日本に通じ、あまつさえハル夫人は日本女性だ。氏の大使赴任を日本がこぞって歓迎したのは言うまでもない。
 ところが、とんでもない不祥事が起きた。1964年、ライシャワー大使が暴漢に襲われナイフで刺されたのである。それだけではない。さいわいにして命に別条はなかったものの、あろうことか手術の時の輸血がもとで肝炎になった。世に言う「ライシャワー事件」である。
 昭和39年10月10日、第18回オリンピック大会が東京で開催された。日本がアジアで最初の開催国となった記念すべき大会である。その年の10月1日には、当時、営業時速世界一を誇った東海道新幹線が開業している。
 戦争で何もかもを失い文字通り廃墟の中にいた日本が、やがて終戦二十年の節目を迎えようとしていた。折しもこの二大事業は、日本のめざましい復興を全世界にアピールする格好の企画であった。
 国を挙げての努力は見事に報われた。新幹線と東京オリンピックを成功に導いた高度の科学技術や卓越した組織力は、世界中から極めて高い評価を得たのである。
 欧米諸国に何かにつけて劣等意識を抱いていた日本が「これでやっと胸を張って世界の仲間入りができる」と少しばかりの自信を持ち始めたところであった。
「ライシャワー事件」はまさにその矢先に起こったのである。
 アメリカはもとより、全世界が日本政府の対応を見守った。
 さまざまな思惑や計算があったに違いないが、結局「精神異常者による犯行」ということで事件は終焉をみた。
 それはいかにも唐突な幕引きを印象づけた。
 はたしてライシャワー氏を襲った犯人は本当に精神に異常をきたしていたのだろうか?
 たしかに、新聞はそう報じた。しかし、マスコミを通して私たちにもたらされる情報は必ずしも常に真実とは限らない。これまでも幾度となく思い知らされてきたことだ。
 精神異常者の犯罪は、病気のなせるわざとして”おとがめなし”が常である。対応に苦慮した政府が「犯人は精神異常者」という最も安直かつ無難な形で”けりをつけた”ということはなかったろうか。
 実際そのころ「政府は自らのメンツを保つために、ライシャワー氏を襲った犯人を無理矢理精神異常者に仕立てあげた」という噂がまことしやかに流れたものである。真偽のほどはわからないが、あり得そうな話ではあった。
 ライシャワー氏は、聞こえた親日家である。おそらく、ことを穏便にすまそうとする氏の多大な配慮があったものと思う。その後「ライシャワー事件」が取り沙汰されることはなかった。
 しかし、この事件がきっかけとなって「売血問題」がにわかに表面化したのである。
 新聞は、かつて梅毒が「黒い血」と呼ばれて恐れられたのになぞらえて、「黄色い血の恐怖」という大見出しを掲げた。
 そして「輸血後、血清肝炎に罹る患者が増えている。その原因は輸血の大部分を売血に依存していることにある」と書き立てた。

 当時、私たちは医学部四年の学生であった。もとより自慢できることではないが、日本の血液制度がどうなっているのかを知る者など誰一人としていなかったし、病院ではどのような手順で輸血がなされているのか考えたこともなかった。まして売血に関する知識など文字通り皆無であった。
 だからと言ってこの問題にまるで無関心でいたわけではない。
 ライシャワー大使が日本人の血液を輸血して血清肝炎になったのは日本の恥だと思い、”輸血は肝炎覚悟の上”はなかば常識であることに愕然とし、とにもかくにも安心して輸血が受けられないというのは大問題と憂えたものである。

 松本の呼びかけで、その日のうちに12人が集まった。
 医学部はすべてが必修科目だ。入学して以来、講義の時も実習の時も、要するに大学の構内にいる限り、皆いつも同じ空間にいて同じ空気を吸ってきた。何年も一緒にいるのだから、互いに気心は知り尽くしている。
 しかし、集結した12人が一つのグループとして行動したことはついぞない。
 同じ目的で集まった”有志”には違いないが、その顔ぶれは極めて多彩にして雑多、まるで寄せ集めの外人部隊を思わせるものがあった。
 海保鈴代−深窓に育ったお嬢さん。それだけに怖い物知らず。おとなしく、いつもにこにこしているが、これでなかなか芯が強い。実直な努力家。
 近藤龍一−あたりを圧する風格を持つ。なれなれしく”こんちゃん”などと呼べる雰囲気はさらにない。よく弁がたつ。何事にも慎重。裏を返せばやや臆病。余計なことだが、驚くべき早飯食い。
 斎藤敏祐−赤いスポーツカーを駆って、常に理論より行動が先行。つまり、じっとしていられないタイプの人間。通称”としすけ”。グループ最年長だが、誰もが呼び捨て。
 斎藤紘子−日ごろ口数は少ないが、何事にも手抜きをしない。信頼度抜群。負けん気が強く言うことは辛辣。誰もが”ひろこさん”とさん付けで呼ぶ。
 徐美玲−台湾出身。アメリカ経由日本の医学部という才媛。大変な努力家。言い出したら引かない頑固なところがある。通称”びれいさん”。
 中泉治雄−茫洋としてつかみ所がない。普段何を考えているのかよくわからないが、社会正義派を自認。じっくり型で、山を愛する。あだ名は”クマ”。
 西井華子−開放的な性格。振り返るほどの美人というわけではないが、なぜか男性に不遍的に好かれる。もめごとのまとめ役的存在。通称”かこ”。
 野間泉−いかなるときも冷静にして沈着。決して自らのペースを乱すことはない。言うべきことはきっちりと言う。それだけに男性軍にとってはこわい存在。バレーボール部員。
 Mさん−字を書かせたら右に出るものはない。素直でおとなしいが、なぜか松本に強く「松本君!」の一言で彼を黙らせる特技を持つ。バレーボール部員。
 宗像一郎−世の中をいつもさめた目で見ている理論派。喧嘩っぱやいのがやや難点。反面、孤独を愛する大変なロマンチスト。ギターをよくする。あだ名は特にない。
 松本英亜−推理小説を好み自らも筆を執る。それだけにからくりを解き明かすのは得意。なぜか世の中の裏側に詳しい。通称”マットン”。野球部員。
 私を含め、つごう12名。何でもやれそうな、そうそうたるメンバーではあった。

「売血を追っかける」と気色ばんではみたものの、さてとなると何から手をつけていいかわからない。そこでまず手初めに、わが東邦大学付属病院の輸血状況を調べることから始めた。
 病棟を回って驚いたのが冷蔵庫だ。看護室にデンと据えられた大きな冷蔵庫には、いずれも真っ赤な太い字で「F血液銀行」と書かれてある。病院の求めに応じてのことかどうかは知らないが、F血液銀行からの寄贈であることは歴然としていた。
 輸血が必要になると、担当医か看護婦が血液銀行に電話で注文する。血液は直接看護室に配送され、くだんの銀行名を大書きした冷蔵庫に保管される。血液の入手方法はことほどさように単純なものであった。
 薬剤部が血液を集中管理するといったシステムではなかったので、結構ずさんに取り扱われることもあったらしい。
 血液は摂氏4度で保管することになっているが、一緒に入れたアイスクリームが溶けないように温度を0度に調節したため、輸血の血液が凍ってしまったという信じられないような話もあったやに聞く。
 電話一本でF血液銀行が欲しいだけの血液を、しかも直ちに配送してくれる。確かに便利で重宝だ。が、それも日常化するとそのこと自体が”当たり前”になる。よほど気持ちを締めてかからないと、慣れは人の感覚を容易に麻痺させてしまうものだ。
 医者や看護婦も例外ではない。いつしか血液に対する考え方が安易となり、その扱いもまた雑になる。アイスクリームの一件などまさにその現れと言える。
 ”当然”となってしまったためにおざなりにされていることは世の中にはたくさんある。
 話は飛躍するが、選挙権がいい例だ。選挙権は成人に達すると自動的に得られる。あまり当たり前すぎて、誰もことさらの感情など抱かない。
 しかし思えば、等しく選挙権が与えられるようになるまでには、それこそ長い苦難の道があったのである。ようやく獲得した私たちの権利であったはずだ。それが、今や選挙のたびにその投票率の低さが話題になるありさまだ。
 当たり前のことが当たり前に通用するのは素晴らしいことである。それがいつまでもそうであるためには、多くの人がその素晴らしさに気付いていなくてはいけない。当たり前のことが当たり前でなくなってしまうのは存外簡単なのかもしれないのだ。

 輸血をした手術患者がその後どのような経過をたどったかを調べて、またまた驚いた。
 輸血後一から三ヶ月の間に肝機能障害が認められたものは実に八割近くにのぼり、血清肝炎の発症率も極めて高いことがわかったのである。
 輸血をしなかった手術患者には、麻酔薬によると思われる一時的な肝機能異常は見られても、血清肝炎の発症はない。
 肝炎が輸血によって引き起こされていることは明白であった。
「輸血をすれば肝炎に罹るかもしれないというリスクは確かにあるさ。しかしね、大きな手術にはどうしても輸血が必要なんだよ」
「血清肝炎を恐れるあまり、輸血を手控えて患者さんを見殺しにするわけにはいかんだろ」
「よしんば肝炎に罹ったとしても、何らかの治療方法はある。しかし、手術をしなければ患者さんを救うことはできない」
 医療の現場にいる医師から聞かされるさまざまな意見は、煎じつめると「だから、たとえどんな血液であろうとも」ということに尽きた。その通りに違いないとは思う。がしかし、輸血後に血清肝炎に罹るリスクの大きさを考えると「やむを得ないことです」とそのまま認めるわけにもいかない。
 それにしても、売血の血液を輸血をするとなぜこのように高率に肝障害を起こして来るのか。
 その前に、なぜ売血がこのように幅を利かせるようになり、安心して輸血が受けられない状態に陥ってしまったのだろうか。
 これらの疑問を解く鍵は、実は日本の血液事業の歴史にあった。
 その歴史というのは概略こうである。
 膿胸手術後の患者に300mlのクエン酸ソーダ血を輸血したのが、日本で最初の輸血とされている。大正8年(1919年)のことだ。
 その年には、子宮筋腫や外傷の患者の輸血も行われ、それ以後、主として重症患者に少量の輸血が行われてきた。
 昭和6年(1931年)、飯島博氏によって「日本輸血普及会」が創設された。
 血液事業としてはこれが日本で最初のものであった。つまり日本の血液事業は、一民間人によって始められたのである。
 当時の政府は血液行政には全く無関心だった。ために、日本の血液事業史に初めて法律が登場したのは、昭和20年2月。「日本輸血普及会」が創設されて実に14年後のことである。
 その「輸血取締規則・厚生省令第三号」もなぜか一年ほどで失効し、その後日本の血液事業は再び野放しのまま顧みられない時代が続くことになる。
 戦後しばらくの間は、患者の親族などからの血液、あるいは輸血組合、輸血協会と称する業者の手を経て斡旋される供血者の血液が患者に輸血された。いわゆる枕元まくらもと輸血と言われるもので、供血者から採血した血液をすぐに患者をすぐに患者に輸血する新鮮血輸血(俗に生血なまけつと呼ばれた)であった。
 枕元輸血は、大量の輸血が必要な場合、同じ血液型の供血者を一度に多数確保することの困難さと、あらかじめ日時と場所が特定されている場合でないと機能しないという二つの大きな欠点がある。
 昭和24年(1949年)連合軍総司令部(GHQ)の援助で日本赤十字社に血液銀行が誕生し、保存血液の製造がなされるようになった。
 二年後の昭和26年には大阪と広島に民間の商業血液銀行が開業している。
 昭和30年ころから、外科手術のめざましい進歩および交通外傷の増加で、血液の需要は急激に増えた。
 それに伴い、昭和30年には123913リットルであった保存血液の製造量は、翌31年にはおよそ25万リットルと前年の二倍以上の伸びを示している。
 昭和31年(1956年)6月、「採血および供血あっせん取締法」が公布された。
 これは日本に初めて血液銀行ができてから実に7年目のことである。
 昭和21年以来、何らの法的規制もない状態で勝手に独り歩きをしてきた日本の血液事業が、ここにようやく法の定めるところにしたがって管理されることになったのである。
 昭和37年(1962年)厚生省が初めて4000万円の補助金を計上した。これは移動採血車購入に際しての、採血車一台につき250万円の補助金である。
 ちなみに三ベッドを擁する大型採血車一台の値段は620万円、二ベッドの中型採血車は520万円であった。
 かくして日赤に15台、青森県に一台の移動採血車が配備された。
 昭和39年。経営主体別には、公立6、日赤16、財団法人および社団法人11、株式会社22、全国で合計55カ所の血液銀行が存在し、この年584,969リットルの保存血液が製造されている。
 総製造量に対する割合は、売血が97.5%、献血が1.9%、預血が0.6%であった。
 こうして日本の血液事業史をたどってみると、国が血液事業にいかに無頓着であったかが浮き彫りにされる。
 血液の売買を公然と認めたことが最大の汚点であったのは言うまでもないが、急激な血液の需要に対して何の手も打たなかった国の責任もまた大きいと言わざるを得ない。
 その結果、輸血の97.5%を商業血液銀行の売血に依存するはめになったのである。
 民間血液銀行は紛れもなく営利事業だ。血液の需要が増せば増すほど、さらに売上を伸ばそうとやっきになるのは当たり前である。
 血液と名が付けばいくらでも売れる。圧倒的売り手市場が、早晩血液の質の低下をもたらすであろうことは容易に予測された。にもかかわらず、国はそれに対する歯止めをいっさい講じなかった。結果が、売血による血清肝炎だ。
「ライシャワー事件」はたまたま良くないことが偶発的に重なって起きたのではない。無策に過ぎた日本の血液事業の長い歴史が、立派に伏線になっていたのである。その点では、いわば起こるべくして起こった事件であったと言える。
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