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2017年01月29日00:24

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今川家の寿桂尼こそ女傑の見本

戦国の女傑、百の首を獲るも自刃した悲劇の「鶴姫」など
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=125&from=diary&id=4406229
それこそ井伊家の上に君臨していた今川家の寿桂尼こそ女傑の見本だろう

藤原北家の一族、中御門家の姫で父・中御門宜胤は歌人としては高名な人だった。今川家は足利将軍家につながる名門で、京の公家とも親交が深く寿桂尼は今川の氏親の正室となる。

氏親の亡くなる70日前に「今川仮名目録」ができましたが、寿桂尼が中心となってまとめたもので今川家の発行した裁判の基準で東国の武家が作ったものとしては最も古い規則になる。

氏親が死んだ後、嫡男の氏輝が家督を相続。当時の氏輝はまだ14歳。若く経験が浅かったので寿桂尼が後見人になった。この時代寿桂尼は多くの文書を発行し、氏輝の後見人として事実上の今川家当主として今川家を仕切った

今川家と争っていた武田家と和睦したのも寿桂尼の働きだが氏輝が成人したあとも、寿桂尼は氏輝を補佐し続けたが氏輝が24歳の若さで亡くなると弟の彦五郎も同じ日に亡くなり残された息子は出家した栴岳承芳だけになったが側室の息子・玄広恵探が祖父・福島安房守とともに挙兵。花蔵の乱と呼ばれる後継者争いが起こり、寿桂尼は出家していた栴岳承芳を呼び戻して義元と名乗らせ太原雪斎と協力して玄広恵探派を鎮圧。義元を今川家の当主にしている。

義元が家督を継ぎ太原雪斎が義元を支えました。今川家の内政は義元にまかせて表に出ることは減ったが、寿桂尼の発行文書はあり、ときおり今川家の決定に影響を与え、この時期、今川家は最盛期を迎えている。
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